過去から今日、今日から未来へ先人が残した言葉を贈ろう。 異なる文化と歴史の中で人類を繋ぎ続けた言霊のリース。 幾多の時代を超えて、ひとつずつ解き放つ。
 
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コトダマピース 25詩*『わたしたちは知らないうちに』
2008-08-20 Wed 22:55
『わたしたちは知らないうちに』

口に出していうと
ことばが死ぬと ひとはいう
まさにその日から
ことばは生きると
わたしがいう


              【エミリ・ディキンソン】

今回はいつもの堅苦しい雰囲気をお休みして、
思いつくこと、気ままに書いてみます。
短くて、口語的で、シンプルで。
まるで、どこにでもあるような ありふれた日記みたく。
ずいぶんと久しぶりだからね。
ひそかに、そして静かに待っていてくれた人、本当にありがとう。
あまりに長い間更新してなかったもんだから、心配の声もチラホラいただいたりなんかして。
改めてありがとう。
生きてます。
元気です。
ただちょっと忙しかっただけ。
…て、言い訳してみました。

今日は、このブログを読んでいてくれているあなたに語りかけてみるかな。
一方通行な軽い本音トーク。

毎日、実は思うように生きれてないって感じること、ないことはないよね。
誰だってさ、そう心のどこかで、なかなか落ちないしつこいシミを抱えて。
だけどどうしようもなくて、ただただ爪をかみ、やり過ごす日々もある。
それは自分に対しての不満なのか、それとも環境や社会や政治や人間関係なのか…
標的はたくさんあって、目移りしてる間にどれもこれも一つに的を絞って打ち切れない。

でも、なんだかんだいいながら、
結局はすごく頑張っている人をたくさん見るわけ。
いろんな人の悩みや話を聞くわけ。

そしたら、やっぱり言葉ってのはすごいなーって感じるの。
当たり前のことなんだけど。
なんていうか、自分の中にあるものを表現する以上にね、
知らない誰かと意思疎通できるっていう便利さ。
偶然と必然が折り重なって、言語っていうものが生まれたわけだけれども。
それって、本当に奇跡なんだと思ったよ。

人間である以上、まず言葉ってものから逃れられないわけだけど、
誹謗中傷とかね、悪態をつかれたりとかね、
ときにはそういうことで傷ついたりもするけどさ、
でも実際、言葉に守られたり、助けられたりしていることの方がずっと多いんだよね。
いつも、どこかで忘れそうになるけれど。
ただ単純に、伝え合うことに対して、心から感謝する気持ちを。


それで、随分ここから離れてしまっていたけれど、
このブログを改めて、自分で読み返してみたりしてね。
すごく客観的に。まるで、今初めて出くわした他人の文章みたいにね。
そしたらさ…。
うん、やっぱりこのタイトル通り、言葉の一個一個がまさに『パズル』なんだな、と。
自分が今ここで使っている言葉の数々は、遠い誰かから、あるいは近しい人達から、
たくさん与えてもらって、教えてもらって、それで全部受け継いでいるものたちだから。
それらをただ真っ白いスペースに埋め込んでいるに過ぎないのね。
そんなたわいもない作業。


それなのに。
自分でもびっくりするくらいの巨大な言葉の地図が出来上がる。
でも、それは先人たちの知恵や思想や哲学から生まれた言葉の積み重ねのおかげでもあって。
もちろん、自分が関わってきた身近な人々の中からも吸収してきたありがたい知識でもあるし。
本当に不思議です。

そして、同時にすべてが愛おしいと思える宝物。

きっと、これから先も沢山の言葉たちと出逢っていくのでしょう。
それを心の底から待ち遠しいと思える、今日この頃です。

言葉は流れる日々の中、誰の上にも降り注がれて、
共に歩みをそろえながら、生きとし生ける者の人生を彩る。
私達の知らないうちに。

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コトダマピース 24詩*『蒼き天辺で生まれた光』
2008-05-03 Sat 04:09
『蒼き天辺で生まれた光(クリアーライト)』

チベットの村境の山道を、中年を過ぎたラマ僧と、彼の弟子の小坊主が歩いていく。
彼らはたった今、死者が出た家で、死人をバルドに送ってきたばかりだった。
≪注:バルド 生と次の生との間の中間的状態。チベット死者の書は「バルド・トドゥル」と言われ、死者の意識は、死後バルド(中有)世界に入ってゆき、さまざまな体験をする様子が詳しく書かれているもの。トは聴くこと、ドルは解放をもたらすこと。チベット僧は死者の耳からお経を唱え、死後の肉体から魂を解き放つ≫

老僧「人は百年も立たないうちに死んでしまう。
    長寿を得たものも、確実に死んでいく。
    かたちあるものは、滅びを向かえ、
    集まったものは散り散りになっていく。
    空に生まれ、空に死んでいく。
    人は皆、私やあなたも、この現象世界のどこにも、
    羽根を休める足場をみいだすことのできないまま、
    宙に舞い続ける蜂のようなものだ。
    財産や、家族も、肉親の愛情も、死のときには何の役にも立たない。
    あなたはそれをすべて捨てて旅立つのだ。
    だから、私達が生きているうちにすべきことは、
    自分の心を成熟に向かわせるだけなのだ。
    そのことの重要さが、誰にも訪れる死の時に、わかる」
   
小坊主「では、生まれてくることは、喜びではない、というのですか?」
老僧 「死ぬことがたんなる悲しみではないのと同じように、生まれることは、
    それだけで喜ばしいものではない」
小坊主「では、私達、生まれてきてしまったものの生には、意味がないのですか?」
老僧 「生と死の向こうにある、心の本質を知ることができたら、
    その生には意味があったということになるし、それができなければ、
    無意味なことを積み重ねたことに過ぎないだろう。
    お前は何も知らずに生まれてきたが、今は生まれてきたことの意味を、知り始めている」
    
小坊主「生まれること……死ぬこと……」
老僧 「お前にいい言葉を教えてやろう。インド人が考えたものだ。

     誕生の時には、あなたが泣き、
     全世界は喜びに沸く。
     死ぬときには、全世界が泣き、
     あなたは喜びにあふれる。
     かくのごとく、生きることだ。
    
     さあ、行こう 」 
    
二人はゆっくりと、荒れ果てた山道を歩いていく。
頭上には真っ青な空がひろがっている。

               
                【中沢 新一~三万年の死の教え~】


【終わりなき魂の詩(うた)と理(ことわり)~第4章~】

~チベット回想録②~

これは、あくまでも個人的なチベット体験記である。
「輪廻転生」という大きなテーマについては、
この先色んな章で、おいおいまとめていきたいと思う。
しかし、これから2章に渡って書き出す話は、
私が今後まとめていきたい論点の、
『予兆』となる内容であるのかもしれない…
   
 *** *** *** ***

チベットに行ったのは随分と遠い昔だ。
もうどれくらい立つのだろう。
学生の頃、友人Mに夏休みの間にどこかに長旅に出かけようと言われたのがきっかけだった。
どうせ行くなら変わったところがいいねということで、
いきなりMが「じゃあ、チベットで!」と無謀な思いつきで言い出したのだった。
どうやら、当時見た映画の『セブンイヤーズ・イン・チベット』にえらく感化されたようなのだ。
私にとって、その時が初めての海外旅行だったけれど、
特に迷いも不安も反論もなく「いいよ」とあっさり答えてしまった。

そして何故か、私がチケットの準備やら全てまかされてしまい、
当時の旅行会社の人に
「残念ながら、チベット行きは渡航手段が日本からは取れないので、現地で直接お願いします」
と、超アバウトなことを言われ、仕方なく中国で何とか取得する羽目になった。

私達がチベットに行くことを、とある友人に話したら、
「じゃあ、藤原新也の『西蔵放浪』って本、持ってきなよ」と言われたのが、
実は藤原新也との初めての出会いだった。
この時以来、随分と彼の思想にはお世話になるのだが…
それはさておき、
まずは中国へ入国し、チベットに向かう手段をあれこれ探し回った。
当時はまだ青蔵鉄道は開通していなくて、
それ以外で交通手段といえば車かバス、もしくは飛行機ということだったが、
中でも、
バスやランドクルーザーでの山越えは体力的にかなりキツイという話を聞いて、
無難に四川省の成都から、飛行機で行くことにした。
チベットに辿り着くまでにも、中国で色んな紆余曲折はありつつ、
やっとこさ到着したチベットで、見切り発車の友人は高山病で即ダウン。
三日ともたずに「中国に帰る!」と言い出し、
またしても私が現地の旅行会社で飛行機のチケットを取りに行ったら、
哀れな友人と同じように、着いた瞬間に高山病で苦しむ人々が後を絶たないらしく、
物見遊山的な観光客は、我先にと帰りのチケットの奪い合いを繰り広げていた。
おかげであいにく2ヶ月先までsold outを食らい、
それでもなんとか交渉して粘った挙句、
奇跡的に翌日のキャンセルチケットが1枚入手できた。
しかし、そんな苦労の末に手に入れた貴重な1枚は、
病にふせって死にそうなMにしぶしぶ譲渡しなければならなかった。
「もう満足です!」とたった三日でさっさと中国に下山していく友人とは、
2ヶ月後に某ゲストハウスでの再会を約束し、しばし別れて一人になった。
それでも、すぐに他の旅行者達と仲良くなったので、
一緒に日本円で1泊約100円のゲストハウスで寝食を共にすることができた。

だが、今思い返せば、あの生活はもうほとんど修行としかいいようがなかった。
観光するところいえば、いくつもの山々に散在する寺院巡りくらいで、
チベット料理はメチャクチャ質素で不味いし、
高山病のおかげで絶えず頭痛がおさまらず、
加えて食べ物に当たったのか、胃腸の調子がおかしくなったので
ミネラルウォーターしか体内に入れることができない。
さらに当時チベットは雨季だったので、土砂崩れが頻繁に起こり、
あまり動き回れないというまさに陸の孤島、何もかもナイナイ状態。
それでもまだ救いだったのは、
様々な国から来た旅行者やチベット人が皆すごく温和で優しかったこと。
しかしそんな温厚なチベット人でも、すでに当時からも中国人に対しては敵意むき出しで、
国籍を問わず、誰にでも親切なチベット僧でさえ、中国人とはあまり関わりたがらなかった。
とはいえ、同じアジア人の日本人には格別によくしてくれた。
チベット僧はたいがい、英語と中国語が話せて、
その上日本語も勉強している人も少なくはない。
何故なら「日本人はチベット人と同じ仏教徒だから」と微笑んで答えてくれたが、
現代の日本人はほとんど形式的な儀式以外、仏教の心得などに触れる機会がないので、
その言葉に胸が痛い思いをしたのは、今でもよく覚えている。

チベットに着いて一週間目に、すごくショックな話を聞いた。
区都ラサは『セブンイヤーズ・イン・チベット』のロケ地だとずっと思って期待していたのに、
実はあの映画の撮影現場は南米で、
しかも役者はチベット人ではなく、
現地のインディオ系の人達をエキストラにして撮ったものだったらしいということ。
どうりで、景色がまるで違っていた、とチベットに着いてから気がついたのだった。
そして、そこでふと思った。
「私は一体、何のためにチベットに来たんだ??」と。
この旅の最大の目的は、もうすでに無くなったじゃないか!

とはいうものの、向こう見ずな旅のきっかけはただ単に無知な私を
まんまとチベットにおびき寄せる甘い蜜のようなものだった、と今では心底思う。

私が主に生活の拠点としていたラサという町は、
何しろ富士山の頂上とほぼ同じ高度である。
それ故、一日の間で天候の変化が激しく、
空から降り注ぐ直射日光が日本の地上のものとは比べものにならないほど強烈で半端ではない。
この恐ろしいほど痛々しく照りつける太陽の紫外線のおかげで、
日増しに顔や体は異常なくらい真っ黒になって、皮膚はやけど寸前の状態の中、
次第に外国人には現地人と間違われるようになった。
気がつけば、自然とチベットに同化しつつある自分…
時々、出逢う日本人と日本語で会話しなければ、
自分が日本人であることを見失いそうな感覚だった。
そしてそれ故にふと考えたのは、
日本人としての自分とは一体何ぞや?と。
現地に行って、まるで役に立たなかった地図や地球の歩き方はその場で全部捨ててしまったが、
ただ藤原新也氏の本だけはバイブルのように持ち歩き、
静かに己と対峙する、そんな日々をずっと過ごしていた。

毎日、朝起きたら町中を散歩するのがもはや日課となり、
歩き疲れたら、カフェテラスや寺院のそばで座り、
行き交う人を見ながら、時に声をかけてたわいもない会話をする。
そんな穏やかな暮らしが心の安寧をもたらす。
日本での忙しない生活から一時開放されて、
飽くことなく見つめ続けたものは、異文化の静かな躍動。

町の中央にそびえ立つポタラ宮殿の前は、
まるで天安門広場のようなただっ広いコンクリートの石畳が敷かれている。
その上で、現地の人々は輪になってただ平和に編み物をしたり、
ヤクの乳から取れたバター茶をすすりながら、談話をしていた。
だが、ある寺に保管されていた20年ほど前の写真を見ると、
ポタラ宮殿の前には大きな湖が写っていて、
「これは何?」とお坊さんに尋ねたら、
「ここにはかつて私達が愛した美しい湖があったのですよ」と意味ありげに答える。
つまり、この広場は後に中国人によって丸ごと埋められた、というわけである。
ここで一つの古い文化は他の文化によって消されてしまったのだ。
悲しいことに歴史というものはいつでも人の手によって、
繰り返し塗り替えられていくのだ。
それを知ったところで、
過去の時代にはもう後戻りできない私達はただ時間と共に進み続けるしかないのだろう。
古き良き時代と開拓精神の狭間。
あの時、ふと感じたような矛盾は今でも際限なく私を襲う。
あまりにも無力で無知であることを。


長いようで短いようなチベット生活の終わりに差しかかった頃、
ラサからバスで半日ほどかかる山合いの僻地にあるという寺院へ行こうと誘われた。
当然、何もすることがない私は退屈をまぎらわすために、
他の旅行者と一緒に出かけることになった。

あと1週間でチベットを立ち去ろうとしている私は、
まだ本当の答えを見つけられずにいた。
この時、私の心でグラグラ揺れていたのは、己の真の居場所だった。
本当は日本を離れようと真剣に考えていたのである。
私にとって、日本って何だろう?
たとえ多くの友達や愛する人々がいるとして、
それはそれ、そうした自分ではない他人の肩にドカっと全身もたれかかることはできない。
どこにいても自分の足で立ち続けなければならないのだ。
そうした揺るぎない立ち居地のようなものが、日本にはないかもしれないと決めかけていたのである。

チベットでは、いくつものも寺院を見て回ったが、
この名前は覚えていない寺院は比較的小ぎれいな内装で、
位の高い中年僧が子供の僧達に教えを説いているところを見せてもらった。
チベットでは一家に一人は必ず僧になる。
そのため、僧の数が多くて、どの寺院でも僧が溢れかえっている、と当時はそのように聞いた。

寺院の近くには小ぶりな岩山があり、そこには色とりどりの旗のような布をヒモで吊るしている。
タルチョと呼ばれる、それはまるで日本でいう神社の神木などに巻く神垂(シデ)のようなものだ。

ゴツゴツした岩の丘から見下ろした先には、極めてのどかな田園と高原が広がっていた。
この頃、チベットはもう秋の入り口に差し掛かっていて、
ほとんどの地域では稲刈りが済み、あちこちで稲穂を束ねた鎌倉のようなものができていた。
ヤク(という牛科の絶滅危惧動物。チベット高原でしか生息していない)があちこちで牧草を食(は)んでいる。
なんて平和なんだろう。
もうこんな景色は日本の田舎にも存在しないかもしれない…
そんなふうに思わせる悠々とした、ただっ広い大地が眼下に広がる。

心地よい風と太陽と、どこまでも続く天空と地平線。
他にはもう何もいらないな…
そう感じた時、ふと心に浮かんだもの。
「でも、ここは私の居場所じゃない・・・
 まだ日本でやり残したことが沢山ある」
そんなふうに悟ってしまった。
いや、これこそが「本物の悟り」ってやつなんじゃないのか?と思うほど、
全身の力が抜けた状態で、ごく自然に内側からふっと湧き出てきた想いだった。

本当はどこかで気づいていたのだ。
「立ち居地なんてどうでもいい。」
いや、そもそもそんなもの初めから存在しなかったのかもしれない。
何故なら、私達人間は絶えず変化し、流れていくものだから。
そして、あの険しい岩壁の丘で、ふっと開けたように感じ取ったものがあった。
そうだ、ここではない。
私がいるべき場所は、こうした外側の異質な文化の中ではなく、
まだ日本の中にあるのだ、と。
私の中の魂がその時初めて、求め続けた答えを見出した。
一瞬、頭の中がハジけるような、軽い目眩(めまい)。
目の前で光があちこちに乱反射する。
気づけば自然と空を見上げていた。

そこにある深遠なる群青の蒼穹(そうきゅう)に焦がした瞳は、
地上の世界では見たことのない、空の青さと高さを知った。
手を伸ばせば、地上からはずいぶん遠い宇宙も、ほんのすぐそこにある気がする。
そこにいるだけで、大きな空を見上げるだけで本当に崇高なものを感じることができる、
ただただ深いインディゴ・ブルーの突き抜ける青。
そして、その奥から降り注がれるのは銀のナイフのように研ぎ澄まされた強烈な光。
崑崙(こんろん)という場所に住む人々が、心濁らすことなく呆れるほど純粋に、
神様が本当に存在すると信じるのも無理はないな、と思った。
ひっそりと神聖化された、名もなき土地。
そう、ここでは私自身も有象の形を失くして、
ひたすら時空を流れる一筋の光になる。
それはきっと、私だけじゃない。

この先向かうところ、
どこに行っても、きっと限界はない。
自分の心に鍵をかけなければ、
羽ばたこうとする創造(クリエーション)を、臆病な鎖でがんじがらめにしなければ。
小さな胸に溢れたのは
空の果てまで続く、極彩色の大きな夢の数。
あますところなく想い描いたら、
空に向かって、訳もなく思いっきり叫んでいた。
「タシデレ~(こんにちは~)
 トゥジェチェ~(ありがとう~)
 カレシュ~(さようなら~)」
現地で覚えた言葉はたったのこれだけ。
でも、今この気持ちを伝えるには、この三語に尽きた。

こんにちは、新しい自分。
ありがとう、今の自分。
さようなら、過去の自分。

こうして長かったチベットの旅も、いよいよ佳境を迎えようとしていた・・・

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コトダマピース 23詩*『太陽に一番近い国』
2008-03-24 Mon 02:01
『太陽に一番近い国』

人の体の中にはいつも"風(ルン)"が通っている。
我々人間はただ身体があるのではなくて身体があるゆえに我々は感じる。
感受性があり体験することができる。
そして知ることが出来るのです。

人は生にすがり危険と死を恐れる。
死を考える人間が人を殺す事はない。

                【ダライ・ラマ~チベットの教え~】


【終わりなき魂の詩(うた)と理(ことわり)~第3章~】

~チベット回想録①~

今回は予定を変更して、現在、世論の渦中にあるチベットについて語りたいと思う。
実は事件が起きる前から、チベットに関してはあらかじめ計画していたトピックがあり、
私なりに順序を踏まえて、念入りに取り出してくるはずだった。
しかしこの度、ついに来るべきチベット暴動が起こってしまった故に、
急遽、順序を前倒して修正せざるを得なくなってしまった。
チベットといえば、チベット仏教の「死者の書」で輪廻転生や前世といったものが取り扱われている。
そもそもこのブログ内で【魂】を冠にしたサブタイトルからして、
その輪廻転生論についての検証が実はテーマの命題だったのだが、
こうも早くに論議の核をうながされるとは、
「青天の霹靂」…なんかやっぱりチベットらしい感じ。
正に今年はなんとなく予感していた「大変革」の年を象徴するような、
予定外の衝撃的な動きだ。

恐らく日本人のほとんどは、
「あ~、世界のどこかでまた今日もそんなことが起こっているのね~」的なノリに過ぎないかと思われる。
かく言う私も、チベットという国以外で起こっていたなら、無責任にもそんな感想が出たのかもしれない。
しかし、チベットはなんというか言葉では言い表せない感情の思い入れがあって、
それを今回、説明できる限り、表現していきたいと思うのだ。
多分、そうしなければいけない気がしている。
今の私が彼らのために、唯一できることとして。

今から語ることにおいては真偽の判定が難しいところだが、
率直に言うと、どうもチベットと私の間には何か深い縁があるらしい。

それをあらためて確認したのは2年前、父方のいとこのある言葉に起因する。
そのいとこは私と年は変わらないが、いわゆる超強力な霊能者に生まれついた人物で、
現在もその能力を生業にして生活しているわけなのだけれども…
余談だが、どうやら私の父方は祖父母ともにそういう奇妙な能力の家系らしい。
それで私はどうかというと、まあ、直感とか予感?とかそういうものが
人より少しばかり発達しているようだ。
たまに波長があえば、変なモノを感じたりすることもあるが、
私自身のその力はかなり不安定な部分があって、
本人的にはあまり認めていない。(というところがまさに天邪鬼)
しかし、家系的に霊能力の遺伝というのは、
あながち嘘ではないのかもしれないということは認めざるを得ない経験は少なからずしている。

さて、そのいとこと話をしているときに、
また例によって、いとこが勝手に私から何かを感じ取ったらしく、
(ごく自然にあることなので、もはやあまり驚きはしない)
「今、一瞬(私の)前世が見えた…時代はわからないけど、チベットの高僧だったんだね」
なんぞと言い出した。
当然、「ハァ?」という間抜けなことしか答えられなかった私。
それでも、構わずいとこは続ける。
「ああ、そっか、(いとこが)助けてもらったんだ…昔の(私が)何か言ってる…
『カルマとダルマ』…ねぇ、この言葉に覚えはない?」
ありませんよ、そんなもの。
でも、一つ関係があるような気がするものといえば…
この時以前に、私はチベットへ実際に行ったことがあるということだけ。
そう伝えると、「え??なんだ、もう自分でもわかってたんだ…」
何が???さっぱり意味が解かりませんけど?!
いとこと話すときは終始こんな感じである。
結局、いつも最後はこうしたキーワードをもとに自分で探しなさいと言われる。
この時も案の定、また同じことを言われてしまった。
彼女は、江原さんのように手取り足取り優しく導いてはくれない。
何故なら、全ては最終的に「自分で感じて悟ること」。
それが、一番重要なのだというスタンスを常に貫いているから。

というわけで、
まずカルマはヒンズー教や仏教でいうところの「業=因果応報」ってやつでなんとなく解かったが、
じゃあ、ダルマって一体何事??という疑問がいっぱいでネットで調べてみると、
仏教でいう「法」であり、真理や存在を表すものらしい。
…で、それが?何なの?
ダメですね…正式な仏教徒ではないので、イマイチ関連性が見えません。
それでも、この言葉は現世に生きる自分への課題なのだと、いとこは言った。
チベットの他にも前世は色々見てもらったのだが、
何故か、感覚的に今の自分に一番近い何かがあるような気がした。
…相変わらず、意味はまるで理解できていないが。

それでもいとこに言わせれば、
私は、どこか喪失していた魂の欠片をチベットで拾ってきたみたいだ。
確かにあそこで私の身に起こった事は、生涯忘れることのない衝撃的な体験を生み出した。
そして、迷える魂を抱え、一個体の肉体を持つ人間として生きていくための使命というか、
何故、自分はこの世に生まれてきたのか?という深い哲学を追求する上で、
一種のターニングポイントを迎えた、あるいはそういう非科学的な感覚を見つけた場所でもある。

次回は、そんな偶然の中の必然的であったチベット生活とそこでの不思議な体験を詳しく記したいと思う。
相変わらず、長い回想の旅路の中、
ごくごく私的な告白に付き合っていただければ、是幸いです。

私にとって、気高いヒマラヤ山脈のふもとで、
ひっそりと佇むチベットという場所は太陽の懐かしい匂いがする。
そして、この世界の中間点にして、まるで大きな原点のような奥深い思想と文化が渦巻いている。
幸運にも、その全貌のほんの上辺だけを触れることができたのだけれども、
微かでも伝えて、残していかなければならないことのような気がする。
極東の日本から愛を込めて、今もなお闘う彼らに捧げたい。
誰かを救うには、あまりにもつたなく無力な言葉の武器で。

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コトダマピース 22詩*『走る体、転がる意志』
2008-03-22 Sat 00:10
『走る体、転がる意志』

わたしは、今宵、殺される。
殺されるために走るのだ。身代わりの友を救うために走るのだ。
走らなければならぬ。そうして、わたしは殺される。
若いときから名誉を守れ。さらば、ふるさと。
若いメロスは、辛かった。
幾度か、立ち止まりそうになった。
えい、えいと大声を上げて自分を叱りながら走った。
斜陽は赤い光を、木々の葉を投じ、
葉も枝も燃えるばかりに輝いている。
日没までには、まだ間がある。
わたしを待っている人がいるのだ。
少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。
わたしは信じられている。わたしの命などは問題ではない。
死んでお詫び、などと気のいいことはいっておられぬ。
わたしは、信頼に報いなければならぬ。
今は、ただその一事だ。
走れ、メロス!

                      【太宰 治~走れ、メロス~】
                    
                    
【終わりなき魂の詩(うた)と理(ことわり)~第2章~】

今、東京ではもっぱら「走ること」が流行りなのだそうである。
この冬は各地のマラソン大会が大盛況だったようだ。
メタボや美容対策として、政府や企業が諸手を挙げて功を得た様子。
そして、各地でマラソンにランナーとして参加する以上に、
街頭で閲覧する人の数も多い。
この前の東京マラソンでも芸能人やアナウンサーがこぞって参加したせいか、
マスコミも一日中、大騒ぎだった。

しかし、冷静に考えるとマラソンというものは、他のスポーツと比べると、
得てして奇妙な競技である。
何故ならば、そこには複雑なルールや込み入った展開があるわけではなく、
ただランナーが「走っている」姿があるだけだからだ。
サッカーや野球、またはバレーボールなど他にも視聴率が高い競技と比較すると、
劇的な盛り上がりも少ない。
それでもなお、見る者を惹きつけ、
心を熱くさせる「何か」がそこに存在しているようだ。

ただ「走る」という点において、共通するものといえば、
例えば、競馬や競輪、F1レースなどがある。
しかし、これらは同時に賭け事だったり、
人間が作ったメカニズムへの尊厳などが反映されていて、
「走る」という行為自体に、重点を置いているわけではないと思われる。

確かに、「走る」側の人間は、長い距離の間で、
『ランナーズハイ』というある種突き抜けた感覚のナチュラルハイな状態に入る。
つまり、脳内でモルヒネとよく似た物質が分泌される。
それはいわゆるセロトニンというリラックス成分だといわれているが、
とにかくコイツが分泌されることによって、
肉体の苦痛から開放され、まるで天国にでもいるような気分を味わうというわけである。
よく長時間のウォーキングやジョギングがストレス解消になるといわれるのも、
このセロトニンのせいである。
ちなみにセロトニンはウォーキングで30分以上、
ジョギングで20分で脳内から分泌されるらしい。
ストレスを解消したい方にはぜひお勧めしたい。

とはいえ、今回論じている点は「走る」側ではない。
「走る」姿を見る側の人の状態、である。
人が「走る」だけで、どうしてあんなにむやみに白熱できるのか?

TVの前で解説者の声を除いて、ふと耳を澄ませば、
淡々と走るランナーの呼吸の音が響く。
どうやらこれが一つの原因かと考えた。
いわゆる「変成意識」というもの、だ。

「変成意識」とは、簡単に言えば、いわゆる催眠状態を表す。
ランナーの呼吸音がなにゆえ、催眠術と関係するのよ?というと、
「変成意識」に陥るには、相手と同じ呼吸音やしぐさに合わすことが大前提だからだ。
つまり、Aという人間がBという人間と同調するならば、
まずAはBと同じ呼吸数に合わし、
さらにしぐさや話し方を真似していく。
そうすることで、Bは自然とAの意識と同調していく…といった具合。
実は大抵の人間は日常のあらゆる場面で、
無意識にこういう半催眠状態に軽くかかっているのだという。
というのも「変成意識」に陥るのは、上記の方法以外にも沢山あるから。
恋愛なんてのもその一つだったりするんでしょうな。

とにかく、様々な疑問の中で、
一候補として浮かび上がった「変成意識」における影響の可能性。
ならば、「走る」人を見る者は皆して、半催眠状態にあるのだろうか?

いやいや、そんなことよりも本当はもっと単純な理由なのかもしれない。
「走る」というシンプルな行為の中に、人間なら誰しも本能的に「共感」するのだろう。
車や電車や飛行機などの便利な交通手段がなかった頃、
人間は自分の足で、あらゆる場所へ移動した。
そして、それはそのまま「生きること」にも繋がっていたはずだ。
かつては一日中歩いたり、走ったりして、獲物や食物を探し回った時代があった。
そうして、今この瞬間よりもっと先へ進もうと、
一方通行の限りある時間さえも追いかけた。

文明が進化を遂げる今もなお私達は「走る」人の中に、
そうしたかつての名残を見るのかもしれない。
誰かに、何かに頼ることなく、
自らの足でコツコツと築き上げていく「生きる」道のりを。

「走る」こと。
それは絶えず利便性を追求するようになった現代に生きる私達が、
何か心の片隅で忘れかけていることをふと思い出すような、
柔らかい刺激に満たされるものなのか。

当然ながら、前へ進むには、「走る」ことが必要だ。
時には歩くこともあるけれど、
まだまだこの旅の先は長い。
光も闇も突っ切って、なりふり構わず転がり込んだ風景の向こう。
そこには何が見えるのだろう?
それは、走り切ったあなたにしか見えない。
強い意志の下、きっと極上の宇宙(そら)が夢のまま広がる。
あなたの魂は絶えず肉体を走らせて、
今日も必死で探しているのだろう。
大丈夫、見つかるよ。
どんな不出来なレースにも、ゴールは必ずあるんだから。

さあ、行こう。
未だ見ぬ大勢の歓声が鳴り響く、まぶしい未来の方へ。
眠った意識よ、今走り出せ。

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コトダマピース 21詩*『こぼれおちるもの』
2008-02-27 Wed 00:53
『こぼれおちるもの』

心に鍵をかけてるひと、
かけすぎて人と話すのが苦手になったりしてる人、
自殺をしようとした事がある人。
俺はそのままでもいいと思うよ。
かっこ良いと思うよ。

でもどうか
生き延びてください。
 
お前が「死にたい」と言って無駄に過ごした今日は、
昨日死んだ奴が一生懸命生きたかった明日なんだ。

「独りでも生きていける強さ」なんてモノは要らん。
リボン付きでプレゼントされても捨てちまうだろうな。
独りで生きる意味ってあるのか?俺は孤独には全力で抵抗するよ。
いつだって誰かを探すよ。
他人が居てこその俺だろう。傷付け合って存在確認だろう。
これらを放棄した俺なんて死んでいる様なモンだ。

出会わなければ良かった出会いなんてきっとない…ないよ。

どうか、履き違えないで欲しい。
人の足を止めるのは、絶望じゃなく諦めだけだということを。

人は誰もがはじめから自分の場所をもっているわけじゃない
だから誰もが場所を欲しがる。
誰かの場所をとったっていいんだって、誰もが必死なんだから。
でも俺は君と一緒にいたい、同じ居場所にいたい。
だってそれが俺の生まれた理由だから。


                  【 藤原基央~Bump of chicken~ 】


【終わりなき魂の詩(うた)と理(ことわり)~序章~】

たとえば、今日という一日。
出会うべきはずだった人に私はちゃんと会えたのだろうか?
大量のノイズが重なり合う街中で、
かすれたサイレンのように鳴く、か細い何者かの声をはっきりと聞き取れたのだろうか?
本当は口に出して言わなくてはならない「ありがとう」という気持ちを何人の人に伝えられたのか?
何より、君は私を今日も覚えていてくれただろうか?

そんなたわいもない戯言であふれる毎日。
一瞬の過去を背にして、数秒先の未来を追いかける。

互いの顔を確かめる間もなくすれ違い、その他大勢がひしめき合う群集の中で、
私の儚い感情はガラス玉のように、こぼれ落ちる。
その後すぐに春を告げる風が豪快に吹いて、
足元から不要な痕跡をかき消していくと、
それは有無も言わさず、ちりぢりに飛散して、やがて粉々になるのだろう。
まるで何もなかったように。
そして、始めから存在すらしなかったかのように。

こうして日々浮かぶ無数の想いはすべて、
ただっ広く際限のない空間にただ虚しく吸い込まれていくだけ。

私という存在は、果てしない世界を前にして無力に違いない。
太刀打ちできないものは沢山ある。
だからといって、それで済まされる問題なのだろうか?
すんなりと納得できない気持ちが、幾世代もの次元を飛び越え、
魂をこの世界に留まらせている原因ではないのか?
しかしこれはもしかして私だけではなく、この世の普遍の定理?

そうだとしても、もうすでにすべては始まっている。
存在は続き、私達は闇雲に発信し続けるしかないのだ。
約束が果たされる、その時まで。

そしてまた、私達をはっきりと位置づけるパルス=信号。
それは言葉で始まり、言葉で終わる。
吐き出された言葉というシンプルかつ複雑な魂魄(こんぱく)。
おそらく、これは巨大な砂漠の中の一握の砂。
幾度となくすくいあげても、手の指の隙間から音もなくすり抜けていく。
私が紡ぎ出す迷い子の言葉は大衆の前にして、不可抗力。
されど、底抜けの衝動は一向に治まらず。

明日に約束はない。
そんなこと、最初から知っていた。
それでも真っ直ぐその先に向かおうとしているのは何故?
私という魂は何処へ行こうとしているのか?

ああ、そうか。
君がいるから、か。
届かないとわかっているこの言葉も、すべては君のため。
私達は多分、同じ場所からスタートして、そして最後にはまた同じ場所に辿り着くんだね。
きっと今は君の方がリードしてる。
私はすぐに寄り道してしまうから、少しずつ遅れてしまうみたい。
だけど、その分、面白い話をいっぱい手に入れたから、
いつかゆっくり君に聞かせてあげる。
とても長い旅を終えた後に。
君と一緒にいたいから、今日も一生懸命に走っている。
理由はすいぶん時間がたった今でもわからないんだけど。

目指す場所は、君との思い出の場所。
私達の魂が生まれた遠い昔、
一番最初に見たあの虹が立つ、懐かしい空の彼方へ。
数え切れない生命が新しく始まる、いにしえの大地へ。



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コトダマピース 20詩*『小さな手紙 』 
2008-01-22 Tue 23:50
『小さな手紙 』 

◆どこにかくれているの
 僕の君
 早くでてきて
 僕の人生のどの段階であらわれるの

◆近づいて近づいて
 ずっと近づいて
 君へ
 触れるほど近く
 そして
 そのくせ
 どこよりも遠い
 へだたりがあるように
 尊敬の気持ちで

 近ければ近いほど
 遠いところにいる人のように
 接することが大切で

 遠い人ほど
 他人ほど
 一瞬だけ出会う人ほど
 親しげに
 心をひらく

◆「どの時に 勇気がなくて、
 どの時に 手からこぼれ落ちて
 しまったのだろう」

 だれにもわからない。
 あるのはただ、今も
 もろくこわれやすく、時間のむこうで
 走って走ってふるえる月日。

 走ってとまって
 ふるえる月日。
 
◆悲しみなさい
 あとでむかえにくるから

 行きなさい
 あとで抱きしめてあげるから

 まちがったとしても
 あとで すべてを聞いてあげるから
 
◆気持ちがゆれていれば
 そこが旅の途上

 ありふれた景色でも
 異国情緒の夜景

 さえざえとした月の
 影をふんで歩く

 気持ちがゆれていれば
 そこが旅の途上

 あなた以外だれも
 みちづれはいらない
 
 アスファルトの硬い道も
 遊覧船のデッキ
 
 
◆矛盾に気付きそうになってる

 思ってることと行動が
 近くなるほど
 しあわせになっていくからね

 君の人生のしあわせをいのります


                        【銀色 夏生】

前略

元気にしてますか?
毎日、寒いね。
心身の具合など、いかがですか?

時々、メールってのはいかんせん日常に密着しすぎて、
本当は相手に届いているのかどうか判らない手紙のようなものってこと、
忘れてしまうよ。

信じすぎてるんだね。
送信する向こう側に必ず伝えたい相手が存在するんだって。
真意が伝わらない可能性の方が多いのに。
だから、届くといいな、このメール。

軌道がね、ズレることってあるね、人との関わりには。
出逢えたと思ったらね、また宇宙の片隅に一人放り出される。
それは自分の意思かもしれないし、そうじゃないかもしれなくて。

でも、また会いに行くんだよ。
何度でも。
そこに誰もいなくても。
約束なんかしてないけど、会いたいと思うから会いにいく。
それを私は繰り返してるよ。

あ、そうそう。
この前、久しぶりにMと会ったよ。
山のように積もった話はなかなか崩せなくて、
与えられた時間だけじゃ全然足りなかったけれど、
楽しみが次に持ち越されました。
今度再び、同じ軌道上に乗る日までのね。

ねぇ、最後に会ったあの日から、
ずっと君を探してるんだよ。
君の声がね、プツリと途絶えてしまったから。
あの時も少し、薄いガラスの膜のような心を揺らして、
脆弱な気配を見せつつ、下手に空騒ぎしてたっけね。
ごめんね。
あの時、私は知ってて、そのわずかなサインを見過ごしたんだ。

一体、どこに行っちゃったんだろうね。
Mも君の居場所は知らないって言ってた。
連絡もつかないってね。
また、一人旅に出てるのかな?
自分っていう、意識の更にもっと奥にある「最果ての秘境」目指して。
探検は終わるはずがないってわかってんのにね。
こっち側の世界にまた戻ってこれるかどうか、それすら危ういしさ。
でも、探さずにはいられないんだよね。
うん、それはわかってる。
君がどう思おうと、死ぬまで友達だから。
…って、笑うところじゃないよ。
今、ちゃんと神様に誓ったのに。

思えば、付き合い長いけどさ、
本当の君の芯に触れた回数なんて、全然大したことなくてさ。
だけど、少なくとも過去のある時点で同じ時間を共有して、バカなこと沢山して、
これ以上もないくらい、お腹を抱えて笑いあった日々があったよね。
あれは全部、幻だったのかな?
あんなにみんなで一緒にいて、本当はずっと一人孤独を感じてた?
もしそうなら、それって、正直ズルいと思う。
みんなはあのいつかは過ぎ去るはずの時間と場所に惜しまず心を預けて、
永遠に変わらぬ友情の対価にした。
だけど君だけが、心を支払わなかったってことになる。
そんなに信用できなかったのかい?
それとも、永遠って言葉に安っぽさを感じたの?
でも、残念ながら今だに続いてる。
君のいう薄っぺらい虚偽の関係が。
この調子じゃ、これからも続きそうだよ。
そのうち、嫌でもいぶし銀になる。


まぁ、でも君が帰る場所はちゃんと用意しておくよ。
だから、気が済むまで探して、見つけてきなよ。
今度はちゃんと。
君にとって、何が一番大切なことなのか、
君の見栄っ張りな心の叫びを誰に一番伝えたいのかってことを。

くれぐれも健闘を祈るよ。
でももう、過剰な心配はしない。
そんなの、お互い望んでることじゃないでしょう?
君を信じるよ。
ただ、それだけ。

では、またここに、君に会いに来ます。

                    かしこ
                    
追伸:
みんな、君と話したがってる。
どれだけ遠くまで逃げようとしても、
君という存在は、もう消せない。
それが君が求めている真実なのかもしれないね。
君はそこにいる。
単純だけど、確かにしっかり繋がってるよ。
この世界と、私達と。




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コトダマピース 19詩*『心象スケッチ』
2008-01-20 Sun 03:46
『心象スケッチ』

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつづけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです


                     【宮沢 賢治】


「2008年のあなたの運勢」というもの。
この年末年始を占った人も多いと思う。
普段はまるで興味がなくても、
この時とばかりは、日本古来の時期的な風習=お正月ムードに煽られて、訳もなく占う。
そして、妙に信じやすくなっている自分がいる。
お馴染みの高島易断や細木数子、江原啓之、鏡リュウジ、Dr.コパなどの派手な告知された年運特集でついつい診断してしまい、
「今年は大殺界です」
なんて書かれてあったら、
本当はどうでも良くて大して信じてないくせに、
仮に明日忘れてしまうことだとしても、
やっぱり何気に気になって、落ち込んだりしていないだろうか?

まあ、占いってのは過去何千年に渡り、
様々な国で、様々な人の手によって、
恐ろしく複雑かつ巨大な市場リサーチされた
執念の研究成果を元に体系化したもの。
いわゆる統計学の一種、ですから。
当たるも八卦、当たらぬも八卦、とはよく言ったもので。
そういうものだと思う、基本的には。


 今の仕事では「占い」という分野に関わることが多いので、
そのことを幸いに、この際思いっきり利用して、
実際、勉強というか研究というか検証というか、
そういう建前のもと、実のところは興味本位を大前提に、
あらゆる種類の占いで自分を診断してみることにした。

差し当たり、有名なものからマニアックなものまで、思いつく限り網羅する。
姓名判断、西洋占星術、ゲマトリア数秘術、カバラ、ルーン、タロット、
東洋の紫微斗数や四柱推命、陰陽五行、インド占星術…などなど。

そこから、果たして「自分」は見破られるのか?

この機会に、占いの力というものはどれだけのものか徹底的にやってやろうじゃないか、と無謀な挑戦を果たす。
それでもってやり過ぎて、
思いの外うんざりして、現時点ではもうすでに飽きているんだけど。

その結果。
率直に言うと、
どれをやっても、ほとんど同じ意味の結果が出ます、私の場合。
各自、占術や象意はまるで違うのだが、
もう、最後の方は「またか!」っていうくらい、
総合的に代わり映えのしない占断となりました。

そもそもどんなに有名な占い師や占星術家でも、
その占術自体には、
西洋東洋ともに共通の論理=ロジックが存在するから、
結論として類似した結果が導かれるのは必至。
あとは術者自身のカリスマ性や心理的アプローチ、巧みな話術、豊富な知識と経験などで
良し悪しが決まるものだと言い切ってもいい。
中には催眠術的なテクニックを使う人もいる。
事実、心理学や催眠術方面の研究も本格的な占い業には欠かせない要素であるから。
ちなみに占い師と占術家は違う。
占い師はたいてい感覚的というか、
いわゆる霊的、スピリチュアルな能力を持ち、
独自の占術で占断内容を補足していく類の人達で、
占術家とはもともと特別な能力があるわけではなく、
数ある占術を学術的かつ論理的に研究し、そのロジックをメインに使用し占う人達である。
後者は比較的男性が多く、占い&天文学マニアなタイプが多い。
細木数子なんかも本当はこっちなんじゃないかな?
ロジックを駆使して、半分以上は話術や人柄で攻める。
更に定かではないが、
とある専門家に言わせると、
彼女は19世紀辺りの古典的な催眠術を織り交ぜているらしいけどね。

それと江原氏のような霊能者によるカウンセリング?
いわゆるカルマだとかオーラだとか、そういう類の話は今回はパス。
それに関しては、また折りを見て見解を発表しようと思う。
話せば長くなるからね。
というか、いつも内容長いんだけど。

それにしても、姓名判断と生年月日はまったく違うだろう、と。
なんてったって数字と漢字ですから。
そう単純に考えた私は浅はかだった。

両者に関しても、ほとんど同義の意味合いが出現した。
悔しいがこの場合、
「そういう星のもとに生まれた」っていう固定的かつ束縛的な表現が正しいのかもしれない。
だからもうこうなると、
クドクドと説教のように何度も繰り返し占断され、
嫌味なほど導かれている方向に絶対行かないといけないような気分になって、
逆にプレッシャーというか、
何か俗にいう絶対に逃れられない宿命っていうの?
そういうのが本当にあるのかな…?とか思わざるを得なくなる。
それくらい、解かりやすかった。
診断は決して悪くはないんだけど、
総括的にこんなにもはっきり出ると、
なんだか悔しくて「このヤロー!」っていう感情が湧き上がる。
星は本当に知っているのでしょうか?
私が歩むべき運命ってやつを。

というか。
ここで、全て占い終えた後、何か見えました。
ある一つの大悟が。

ああ、なるほど。
「占い」とはすなわち、まったくの現実なんだと。
つまり、過去・現在・未来がすべて凝縮されている、
大げさにいえば、人生の縮図であるのだ。

語弊がないように、もう少しきちんと説明するならば、
今後の自分の方向性、そして生まれ持った本質などは、
実はほとんどこれまでの人生の中に明確に現れていたのだ、恐ろしいことに。
適した職業とか趣味趣向とか、叶えたい夢とか、
図らずも自分の意思で見つけたものが丸ごと夜空に浮かぶ無数の星の位置と、
そこから古来の先人たちが苦心して編み出した計算式に表れている。
腹ただしいくらいに。
物理学や数学の方程式が、未だ誰も見たことがなく、
前人未到の宇宙空間を緻密に計算するように、
占術っていうやつも、人間の生き様を巧妙に操る。
結局、自分はそこに示されたような所を、
知ってか知らずか自ら巡って体現してしまっているのだ。
いやいや、どこか思い込みってのもあるかもしれないが。

だから実際、自分が生きてきたことが示されるなら、
正直、占いする必要がない。
結局、全然関係ないな~と悟り…いや、ひらめきました。
要するに、思うように素直に生きることが、正しい占い結果の全てだと。
しかしながら、
それこそが、そもそも宇宙の定理に動かされてしまっているのだ!とあたかも人類を超越した存在、
すなわち神様や宇宙人辺りに言われたら、
もう反論の余地はありませんがね。

そういえば昔、藤原新也氏も取材で山の手線周辺の路上占い師を片っ端から巡っていたけど…
なんでそんなことしたかって?
私と同じく、占いなんかで自己分析できるかい!っていうのを証明したかったらしい。
恐らく、極度に猜疑心と好奇心がうずいたのでしょう。
そしたら、これがモロに返り討ちにあって、見事に惨敗。
彼もどれもこれもほとんど同じような診断内容で、
更に全体の八割方の占い師は本質を見抜いていたという。
しかもやっぱり今の彼自身の仕事や人生観に、
すべて直接繋がっている結果だった。

そうはいっても。
どこかでまだ定められし「運命」というやつに、
あらがってみたい衝動は、抑えられそうにない・・・
と、いう気持ちが自然と浮かび上がるのも、
星が導く、私の基本性質なのだそうだ。
ええい!うるさいぞ、占いめ!
詭弁は無用。完全に、メビウスの輪です。


次元の狭間で彷徨う魂達が、
生れ落ちたのは星と星の間。
孤高の光がそれぞれ集まり、幾重にも織り成すのは、
宇宙に無限に拡がる壮大なタペストリー。
そこに映し出された幾千もの多彩な輝きの中に、
人は、自分の生まれた意味を知る。

手をかざして、掴もうとする命の目印。
鳥のように羽ばたく光が、
私達を乗せた銀河鉄道を先導する。

たとえ目隠ししていても所詮、逝き先は同じ。
されど、生き方は千差万別で、まるで違う燐光を放つ、
互いの魂の存在を存分に触れ合って、感じ合って、確かめ合ったら、
溶け合うように一つになって、
やがてまた星へと還る。

ねぇ、どうか覚えていて。
あなたは紺碧の夜空に流れる、たった一つしかない美しい星。
私はいつも暗い闇に染まった天体の隅から隅まで観測して、
その宝石を探しているということを。

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コトダマピース 18詩*『ペルソナの鏡』
2008-01-11 Fri 02:56
『ペルソナの鏡』

私たちが認識できる限り、人間存在の唯一の目的は、
単に生きることの暗闇に火をつけることである。

人に苛つくことのすべては、
自分自身の理解に役立つ。

世界を創造するのは神ではなく、この私であり、
「私」の意識化という創造行為によって初めて、 
世界は客観的に存在するものとなるのである。

外の世界で、夢見ている人間は、
内の世界で、己の覚醒を見ている。

心の内側が意識されないでいるとき、それは外側に運命のように現れる。
意識の奥に隠されているものは、やがて運命として立ち現れる。

ある人に合う靴も、別の人には窮屈である。
あらゆるケースに適用する人生の秘訣などない。

私の一生は、無意識の自己実現の物語である。


                          【 カール・グスタフ・ユング 】


 また一つ新しい年が明けた。
無事に踏み越えた去年との境界線は、
まだその太さや形がぼんやりと陽炎のように残っているというのに、
もう、すでにまたいだ先の日常=仕事始めの日を早々に迎えてしまった。
今だ正月休みの人が多いと見え、
普段は騒がしい電車のホームもさすがに閑散としている。
人気の少ない地下鉄を、
何の気兼ねも無く、我が物顔で歩ける贅沢な時間。
毎年、この時期にしか味わえない、
本来なら人間の熱気が溢れかえるはずの場所で、
めったに人影が見当たらないという
この妙な優越感と独り占め感が漂う瞬間が、
私はすごく好きだ。

連絡口の長い通路の壁には、新年らしいポスターが張ってあった。
年齢がバラバラの有名な俳優の大きな顔が三つ。
一枚ずつ横に並び、手にしているのは、よく見知った缶コーヒー。
赤を基調とした、新春の華やかな広告だ。
『今、ここからがスタート』
そんなキャッチコピーに励まされながら、地上への階段を一歩ずつ上りつめる。

一刻も早く、と忙しく駆け上がる際にもl、
無機質なコンクリートの階段の壁づたいに、予断無く幾社もの広告ポスターがひしめく。
大都市の駅構内ならどこでも、
各企業のPR合戦が集中する最強激戦区を象徴する風景。

一通りの宣伝内容を横目で流しながら、改札口をsuicaでピッと通り抜ける。
その先にも大抵、巨大な商業用ポスターがあちこちで待ち構えているものだ。
あるものはこんな文言を書き連ねている。
「探そう!自分らしい働き方」
うん、そうねそうね、そういうの大事ね。
今、流行ってるもんね…
ん?アレ?
いや、ちょっと待てよ…流行??

ここで、急に今年最初の疑問が閃いた。
じゃあ、その「自分らしさ」って一体、何ですか?
 

近頃は、右も左も猫も杓子もぐるりと見渡せば「私」イズム。
「あなただけの…」「私らしい…」なんてキャッチコピーがどこかについてると、
たちまちヒット商品、
ちゃっかり儲かる商売になります。
ゲームにファッションにライフスタイルに「自分」をカスタマイズする時代。
ということはつまり、逆説的に置き換えてみれば「自分らしい」とか「個性」の定義が
実は案外できていないという証明にもなる。
そもそも自分らしく生きる術がしっかり理解できていたら、
このように、丸っきり付け焼刃的なメディアの扇動に
ぐいぐい押されることはあるまい。

「自分らしさ」っていう、曖昧かつ複雑の極み、
だけど表向きなんとなくパターン化して分類できるスタイルは、
どんどんマニュアル化し始めている。
よく考えるとすごい。
「自分」というスタイル作りが商売になるなんて。
食べ物や洋服を買う感覚で、他人の手を通してお手軽に「自分」をコーディネートする。

その延長線上で、ブログなんかも属するのかなって思ったりもするんだけど。

それはさておき・・・
「人生を変える」
「夢を叶える」
これはなんだか、夢がないと生きていく資格がないような、
あるいは夢を持っているということが確固とした生きる資格のような、
とにかく現状に甘えることなく、
人生を変えるように生きなきゃダメよ!っていう押し付けがましい無理やり感を、
最近は嫌でも感じてしまう。

ただ純粋に、自分にはやりたいことがあるというだけのことが、
何か崇高な事のように周囲には思われるのだが、
実のところ、そういう意志を抱いている人間より、
資格取らなきゃ、留学しなきゃ!という何か急に思い立ち、
漠然と言い出す人の方が大抵、
すんなり実現できるパワーがある。

これは単なるひがみではなくて、
何か夢を叶えるにもひどく真面目な優等生だな~って圧倒される節が多々あるのだ。
怠け者で面倒くさがりな私にはすごく羨ましい限りである。
が、しかし。
正直、良い子過ぎて窮屈そうだな、とも思う。

確かに効率がいいんだね。
ポイント押さえたノウハウとか飲み込みが早くて。

だけど、今の世の中でまがりなりにも商売化している「自分らしさ」というものは、
昔でいう複雑な哲学とか思想の体系はすっぱ抜いて、
手っ取り早く外枠だけでも具現化した者勝ち!
なんていう要素が目につくような気もする。

言い換えれば、「自分」も一つの消耗品。
どれだけエネルギーを放出するか、またはそれを社会にいくら注ぎ込むか。
自分自身を消費する時代。
これも資本主義から生まれたもの?

大量生産される「個性」という既成概念と既製品。
今日も誰かが仕掛けている、
「他にはないオリジナルでいるため」の見本。

「人と同じ生き方はしたくない」という、実はみんなが言ってる同じセリフ。
自ら踊っているつもりが、踊らされてたりね。
一見、個性的だと評されるあのボクサー選手とか、某有名タレントとか。
自分が作ってきたものと、誰かに作られたものとの折り合いってすごく難しい。
そもそも、自分の体に流れる遺伝子自体、自分で作ったものじゃあない。
父と母、そしてその後ろに控える祖先から受け継いだものだから。
私達の肉体はミトコンドリア遺伝子を運ぶ、ノアの箱舟のようなもの。
ま、このことはあくまでも私個人の究極論として、捉えてもらいたいのだけれど。

とにかく。
私達は毎日、そりゃあまあビックリするくらい色んな情報や物に左右されていて。
意識するとかしないとか関係なく。
カッコイイ人、キレイな人、頭イイ人、スポーツできる人…
憧れる対象も五万といる上に、
少しでも近づきたいっていう向上心も普通に持ち合わせている。
生まれてこの方、何にも影響されない人間なんてどこにもいない。
それは、人間はもともと慣習ありきの生き物だから。
いかんせん、脳から細胞から基本的に「習うより慣れよ」的な作りになっているせいで、
経験したことが無いこと、
つまり脳に一切記憶(データ)が無いものは絶対にできないのね。
そう考えると、
人間は記憶のつぎはぎ、いわゆるパッチワークで形成されているってこと。

それで、ね。
たかが一個体なのに、
科学や心理学やらを全力で駆使しても「自分」という人間像なんて、
そう簡単に作れるわけがないから、結局またふとした問いかけは自分自身に戻ってくる。
そうすると再び何度も辛抱強く、
同じ答えを探し続けるしかなくなる。
他人に押し付けられた取り組み方法ではなく、別の違う方法で。
つまり、自分が。
そして、あなたが。

「それで君はオリジナルなのか、ダミーなのか?」
その感覚すら、実際のところ危ういわけで。
こんな情報過多な世界に棲んでいたら、
誰だって混乱するよ、「自分」って人間が本物かどうか。

だから、いかにも商売めいていて、
軽くて安っぽい「自分探し」にまどわされるな。
優しげな自己啓発なんて、大きなお世話だ。
自分の内面を掘り下げていくのは、本当はすごくすごく苦しくて辛い。
気が遠くなるほどの失望と挫折の連続と、
孤立無援の真っ暗闇の過程を通り抜けなければ、
光の宝石を見つけられない。
前人未到の深海に沈んでいくような、
潜在意識へのダイブは思いのほか勇気がいるし、
得体の知れない不安も伴う。
それはもはや古臭いやり方で、
時間がかかる職人技な部分があるかもしれないのだけど、
このブログで何度もいうように、
結局、そういう所に帰結することって多い。
多分、人間に染み付いたやり方っていうか、さ。
理由はよくわからないけれど、本能的感覚で感じる分野だと思う。
自己を追求するのは。


そして、今日。
冒頭の缶コーヒーのポスターの前を通り過ぎた時、
思わず足を止めてしまった。
事態は思いもかけない形で異変していた。
よく見ると、俳優三人のうちの一人の顔がない。
その部分だけ、輪郭をなぞるように何者かにカッターナイフで丸く切り取られていたのだ。
そこにあるはずの顔がないということ。
それは、不意に当たり前に存在すると認識している「自分らしさ」を探し過ぎて、
反対に自分を見失ってしまった人間の姿を物語っているような気がして、
背筋が凍る想いに駆られた。
その顔の主が誰だったのかは、
いくら考えても思い出せないのだけれど、
一体、何処に行ってしまったのか…
そのことだけは、こうしている間も胸に残る。

この不可解な戦慄の中で、嗅ぎ分けようとしたのは、
これがもし、大切なあなたの顔だったら。
私はきっと、取り返しに行ったはず。
誰が切り取ったか判らないけれど、
それはこの世でたった一つしかないものだから。
同じような似たものが沢山あるけどね、
私は見極められるよ、絶対に。
あなたが浮かべる微笑みの、
一瞬一瞬が放つ無限の美しさを誰よりも知り、
そして、失いたくない。
何故ってそれが、紛れも無い「あなた」でしょう?

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コトダマピース 17詩*『静夜~ドッペルゲンガー~』
2007-12-31 Mon 04:09
『静夜~ドッペルゲンガー~』

静けき夜 巷は眠る
この家に 我が恋人はかつて住み居たり
かの人は この街すでに去りませど
そが家は いまもここに残りたり

一人の男そこに立ち 高きを見やり
手は大いなる苦悩と闘うと見ゆ

その姿を見て 我が心おののきたり
月影照らすは 我が己の姿
汝 我が分身よ 青ざめし男よ
などて 汝の去りし日の
幾夜をここに悩み過ごせし
わが悩み まねびかえすや

Still ist die Nacht, es ruhen die Gassen,
In diesem Hause wohnte mein Schatz;
Sie hat schon langst die Stadt verlassen,
Doch steht noch das Haus auf demselben Platz.
Da steht auch ein Mensch und starrt in die Hohe,
Und ringt die Hande vor Schmerzensgewalt;
Mir graust es, wenn ich sein Antlitz sehe
Der Mond zeigt mir meine eigne Gestalt.
Du Doppelganger, du bleicher Geselle!
Was affst du nach mein Liebesleid,
Das mich gequalt auf dieser Stelle
So manche Nacht, in alter Zeit?



                           【ハインリッヒ・ハイネ】


 「生命を奪うこと」~三部作~
*第三部*

”切り裂きジャック”をご存知だろうか?
100年以上前のイギリスで発生し、
史上最も有名な猟奇殺人事件と謳われた犯人のニックネーム。
当時イギリスではちょうど「ジキル博士とハイド氏」が舞台で人気を博している最中で、
その嘘のような悪夢がまさに現実で起こったと、
世間をセンセーショナルな渦に巻き込み、
善良な人々を恐怖と驚きに震撼させた。
そして、今直未解決のまま、
忽然と歴史の闇に消えた迷宮入り連続殺人事件である。
この極悪非道のシリアルキラーは、
現在でもその異様なまでのカリスマ的存在感に衰えはなく、
今日における猟奇殺人事件にもしばしば引用されるほどだ。
「羊達の沈黙」のハンニバル博士も、
ジャック・ザ・リッパーを参考にして描かれたとさえ言われる。
無論、真の犯人は今日に至るまで明らかにされていない。

しかし、事件から100年も立った今となって、
真犯人の目星がつき始めたという。
事件はもうとっくの昔に時効であるし、
数少ない貴重な証拠品も時とともに劣化の道を辿っている…
が、ここにきて、いや実は当時から怪しまれていたある人物に
再び脚光が浴びるようになった。
容疑者として挙げられているのは、
イギリスの偉大なる印象派画家の巨匠ウォルター・シッカート、
その本人だったという憶測が水面下で囁かれているのである。
だが残念ながら、彼は1942年に没しており、
すでにこの世の人間ではなくなった。

ウォルター・シッカートなる人物は、誰が見ても極めて容姿端麗で、
穏やかな物腰から発せられる会話は知的で
ウィットに富んだ完璧な紳士であり、
何よりも著名な画家という名誉ある地位も持っていた。
だが、その華麗な人生の裏側に隠されていた彼の屈折した性質は、
生まれつき性的不能者でサディスト、
加えて幼少時代から厳格な父親に逆らえなかったという抑圧から生まれた。
そしていつも冷淡で自分にしか関心がないという性癖も
犯罪に加担した大きな要因ではないかと推測されている。
彼が生涯被っていた化けの皮を一枚一枚剥がす時、
いくら善良な市民に化けようが、
本質的には悪魔のようなサイコパス=精神病質者だった、という本当の顔が現れてくるのだ。

サイコパスとは、基本的に下記のような特徴があるらしい。
①口達者である
②自己中心的で傲慢である
③良心の呵責や罪悪感が欠如している
④共感能力が欠如している
⑤嘘つきで,ずるく,ごまかしのうまい
⑥芝居がかっていて、感情が浅い

更に彼らは法を犯すこともなく,かなりうまく社会に溶け込んでいる。
しかも、やっかいなのは上記を駆使するおかげで、
一見非常に魅力的でカリスマ性を備えている場合も少なくない。
弁護士,政治家, 医者,精神科医,学者,傭兵,警察官,
カルト教団のリーダー,軍人,実業家,作家,芸術家といった職業に
まぎれていることが多いという。
けれどこういう人たちにしても,とても自己中心的で,冷淡で,
人を操作することが非常にうまい。
知能レベルが平均以上に高く、高学歴で,家系がよかったり,
専門的な職種についていたり,環境がよかったりするおかげで,
見た目は正常に見え,比較的無難に欲しいものを手に入れている。

こうして見ると、天才肌的要素がありつつ、
普通に生活する上では、
まともな人間となんら変わらない気がするのではないか?
しかし、このタイプの多くは人を殺すことに喜びを感じるのだ。
人を殺すためには、相手を丸め込んで自分を信じさせなければならない。
だから、嘘をついて、芝居をする。
もちろんそこに、自責の念は皆無である。

ならばどうして、こんな偏った共通点が発生するのか?
はっきりと断言できる原因は、専門家も今だつかめていない。
個人差や環境によって、
共通点の組み合わせに無数のパターンがあるからだ。
だが、ヒントは幾つかある。
アメリカの科学的な調査によれば、
犯罪者のうち、約80%が幼児期に親から虐待を受けており、
そのうちの約50%が脳の前頭葉に異常があると判明している。
感情をコントロールしている前頭葉に障害があるということは、
正常な感情表現ができず、暴力をふるったり、
衝動のまま殺人を犯すことに対して自制がきかない。
そして、殺すことに、常人が持つような
罪の意識や悔恨の念がまったくないということだ。
ないというより、脳の機能上持てないといった方が正しい表現かもしれない。

現在、世界保健機関(WHO)では、
最初から前頭葉を含めた脳に正常な働きが見られないためにおこる精神病質者を、
「非社会性人格障害」という疾病として分類している。
こうして考えると、脳における障害に対しての処置は難しいけれど、
子供に理由も無く暴力をふるったり、虐待することを避けることで、
トラウマから生まれる大半の犯罪は未然に防げる気がする。
だから私達ができることっていうのは、
当たり前のことだが、子供たちを愛してあげることから始まる。
やっぱり、愛ってやつがないと人間はまっとうに生きていけないんだよね。
その上、何度も確認しないと不安でしょうがなくなるなんて、
つくづく、人間ってやっかいな生き物だと思うよ。

余談だが、
前回、戦争時における兵士の性質について述べたように、
全体の中で20%は精神病質者がいるとの分析があった。
これは、どうやら人間界だけの現象ではないらしい。
たとえば働きバチを例にあげると、
一つの巣箱にいる、働きバチのオスの2割がきちんと働かずに、
ただブンブン飛び回るだけだそうだ。
そして、この怠け者(?)の働きバチを全て取り除いて、
残りの8割の真面目なハチだけを巣箱に残し、
再び観察を続けると、今度はその8割の中からまた20%の確率で、
まったく役に立たないハチが出現してしまう。
これを何回繰り返しても、同じ結果が生まれるのだという。

つまり、永遠になくならない、謎めいた20%のマイノリティ要因。

う~ん、私達がいる世界ってのは本当に不思議でいっぱいあふれてるね。
追いかけても追いかけても、
テーマとネタに尽きない場所で、日々生きているわけです。
尊厳と驚異に、思わず合掌。

さてさて、今年最後の締めくくり。
狂気と天才は紙一重。
だったら、自分はどっちでもないな。
というか、狂気はやっぱり勘弁して欲しい。
自分の脳に、決して狂わないようにお願いします。
狂気ってのはきっと天涯孤独で、
自分の内側で際限なく悶え苦しむんだろうけど、
それ以上に、周りの人をもっと苦しめ、不当に傷つけてしまう。
親兄弟も友達も、愛する人も。
それだけは、絶対にしたくない。
大切な人が悲しむ顔は、いつだって一番見たくないもの。

だから、今ここで自分は一人で生きているわけじゃないと、
心の奥底からかみしめられる喜びを与えてくれている、
多くの皆さんに、ありったけの感謝の念を込めて。
いつもたくさんの愛と励ましを、大きくて温かい支えをどうもありがとう。
そんな心やさしいあなたに、
来年も、限りない幸せと多くの笑顔が降り注がれますように。


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コトダマピース 16詩*『道程』
2007-12-30 Sun 18:17
『道程』

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守ることをせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のために
この遠い道程のために


                     【 高村 光太郎】


 「生命を奪うこと」~三部作~
*第二部*

いつかの深夜番組で、ある一人の男性が取材を受け、衝撃告白をしていた。
東大卒の50歳。
仕事は塾の講師。
見た目は小太りで眼鏡をかけていて、頭はすっかり禿げ上がってる。
服装は事務員みたいな地味なベージュのジャケットで、終始憂いのある表情を浮かべる。
何だ、ただの普通のオヤジじゃないの。
しかもまるで理不尽にリストラされた人のような、行き場を失ったような暗いオーラ全開で。
自宅の薄暗い蛍光灯の下でインタビューを受け、猫背気味にボソボソ答える彼を見て、
あまりにもつまらないと判断し、チャンネルを変えようとした・・・
その時。
平凡を絵に描いたようなその男性がおもむろに立ち上がり、しばし部屋から消える。
待つこと数十分、再びカメラの前に現れた彼は、もはや「男性」ではなかった。
そこには全く別人に成り代わった、一人の”女”が立っていたのである。

そう、彼の趣味は女装。
最近はこの趣味が実益を兼ねるようになって、女装サロンを経営しているのだという。
自身のブログやHPでも、その見事な艶姿ぶりをを頻繁に公開しているそうだ。
しかし、いくら派手な服装と化粧を施した女に化けても、
その全体像自体には相変わらず覇気がない。
場末の売れないスナックのママみたいな、
世間に倦み疲れたようなどんよりとした暗さが全身から滲み出ている。

彼が、女装をするようになったのには理由があるらしい。
何年か前に、実の父親が死んだことがきっかけだったという。
男…いやその女は淡々と語り始めた。
「 父親をとても尊敬していました。
 でも、ガンが発覚して、知った時はもう手遅れな状態でした。
 死ぬ直前、父は病室のベッドで、生命維持装置やら、点滴やら、それはもう痛々しい限り 
 で、息も絶え絶え横たわっていました。
 その状態から察するに、私はもうダメだと思ってたんです。
 先生も長くはないとおっしゃていました。
 ある日、父の容態が悪化し、一瞬心臓が停止しました。
 その時、私は先生に
 ”延命措置はいかがいたしますか?”と聞かれたんです。
 そこで、私は迷いました。
 このまま意識もないまま、生命維持装置と点滴でただ生かされるだけなんて、苦しいだけだと思いました。
 それならいっそ、早く楽にしてあげたいと考えて、先生に医療装置を外してもらうことにしたんです。
 そして、父は静かに息を引き取りました。
 後日、お葬式で父の会社の部下や知り合いが皆さん、口を揃えてこうおっしゃいました。
 ”素晴らしいお父様だったのに、どうしてこんなに早くに逝ってしまわれたのか…”
 それを聞いた時、私は思ったんです。
 皆から尊敬される父を殺したのは、他でもない”私”なんだと。
 あの時、私が延命措置をしていれば…父はまだ生きていたかもしれない。
 でも、しょうがなかったんです。
 ああするしか、私には他に選択の余地はないと、そう愚かにも判断してしまいました。
 死ぬほど、後悔しました。
 お葬式が終わってからもずっと自分を恨み、憎みました。
 それで、もう何もかも捨てたくなってどうしようもなくなって、やけくそになって…
 ある日、思い切って街に出たんです。
 女の格好をして。
 通り過ぎる人たちは皆、すれ違いざまに私を見ました。
 その視線を感じたとき、何故かものすごい開放感があって。
 そして、救われたんです、私の心が。
 それ以来、女装をすることは私にとって、精神のバランスを保つ行為なんです。
 そして、全国にもきっと私のような人間は沢山いると思うんです。
 だから、勇気をあげたくて。
 私は女装してるんです。」
 
これ、皆さんはどう思いますか?
私的には正直申し訳ないけれど、あ、この人、病んでる、と思った。
父親を失ったショックと傷が、まるで癒えてない。
なんかこう、健全な開き直りがないっていうのかな?
美輪さんとかIKKOさんみたいなさ、悟りというか独自の生き様というか、たくましい覚悟というか、
そういうのをあまり感じられなくて、
どっちかっていうと、説明しがたい切ないものを受け止めざるを得なくて。
そこから察するに、彼はもともと昔からゲイやらニューハーフの素質があってやってることではないんじゃないか?と感じたわけ。
つまり、父親を自ら殺した(と思い込んでいる)ことによって、自分の中の「父性」な部分を失ってしまったんだろうな、と。
だから、きっと好きでやっている以上にリハビリ治療なんだよね、彼にとっての。
いや、むしろリハビリになっていない可能性もある。
このまま死ぬまで、父=男性要素から目をそらし続けるのなら、
トラウマは一生消えないかもしれない、彼の場合は。
父親の死をきちんと受け止めた上で、
女装をするなら何か一線を越えた潔さみたいなものがあるのだろうけど。

それでも現段階で、
彼は(思い込みの部分が大きいが)人を殺めた罪にさいまれている一人である。
そして、これもある意味、「親殺し」に違いない。
もちろん、彼の場合は神様から大きな等価交換を余儀なくされた。
激しい痛みと悲しみを伴いながら、自分の中の父性さえ犠牲にするという苦しみを受けてしまったのだ。
日本における「親殺し」っていうのは、両親(特に父親)との摩擦が少なくなった現代っ子にとっての、
親を超える儀式に相当する行為なのだそうで。
人間は、成長していく段階で、どうしても親を超えなきゃいけないんだね。
その葛藤が、主に思春期に爆発するらしく、そこで子供の中で発生した感情の坩堝を両親、
もしくは祖父母等の他の家族、そして社会がきちんと真正面から受け止めて、軌道修正してあげないといけないんだって。
だけど、今の世の中は核家族や地域社会が崩壊してしまっていて、
本来はあるべきはずのクッションが極めて少なくなったから、
子供自身で必死に解決しようとしているの。
それが、「親殺し」という最悪かつ究極の形で表れ始めているというわけ。

だけど、親だって完璧じゃない。
一人の人間だもの、必死に生きてるんだよね。
自分の子供や家族を守ろうとして、現代社会の矛盾と戦い続けている。
親は親、子供は子供って線引きするんじゃなくて、
役割を頭から押し付けるのではなくて、もっと寄り添って、
お互いの立場を理解し合うってことが、やっぱりこれからはもっと必要だし、
何より大事にしていかなければ、
この世界は一体どうなってしまうんだ?ていう不安はずっと消えない気がするよ。

これは、なにも親と子の問題じゃないね。
もとを正せば、人間同士の当たり前の部分だから。

来年以降はもっと、こうした当たり前の事に力を入れて生きていこうと思う。
「あなたがいてくれて、本当に良かった」っていう感謝の気持ちを、
誇らしく胸張って伝えていけるように。


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