過去から今日、今日から未来へ先人が残した言葉を贈ろう。 異なる文化と歴史の中で人類を繋ぎ続けた言霊のリース。 幾多の時代を超えて、ひとつずつ解き放つ。
 
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コトダマピース 17詩*『静夜~ドッペルゲンガー~』
2007-12-31 Mon 04:09
『静夜~ドッペルゲンガー~』

静けき夜 巷は眠る
この家に 我が恋人はかつて住み居たり
かの人は この街すでに去りませど
そが家は いまもここに残りたり

一人の男そこに立ち 高きを見やり
手は大いなる苦悩と闘うと見ゆ

その姿を見て 我が心おののきたり
月影照らすは 我が己の姿
汝 我が分身よ 青ざめし男よ
などて 汝の去りし日の
幾夜をここに悩み過ごせし
わが悩み まねびかえすや

Still ist die Nacht, es ruhen die Gassen,
In diesem Hause wohnte mein Schatz;
Sie hat schon langst die Stadt verlassen,
Doch steht noch das Haus auf demselben Platz.
Da steht auch ein Mensch und starrt in die Hohe,
Und ringt die Hande vor Schmerzensgewalt;
Mir graust es, wenn ich sein Antlitz sehe
Der Mond zeigt mir meine eigne Gestalt.
Du Doppelganger, du bleicher Geselle!
Was affst du nach mein Liebesleid,
Das mich gequalt auf dieser Stelle
So manche Nacht, in alter Zeit?



                           【ハインリッヒ・ハイネ】


 「生命を奪うこと」~三部作~
*第三部*

”切り裂きジャック”をご存知だろうか?
100年以上前のイギリスで発生し、
史上最も有名な猟奇殺人事件と謳われた犯人のニックネーム。
当時イギリスではちょうど「ジキル博士とハイド氏」が舞台で人気を博している最中で、
その嘘のような悪夢がまさに現実で起こったと、
世間をセンセーショナルな渦に巻き込み、
善良な人々を恐怖と驚きに震撼させた。
そして、今直未解決のまま、
忽然と歴史の闇に消えた迷宮入り連続殺人事件である。
この極悪非道のシリアルキラーは、
現在でもその異様なまでのカリスマ的存在感に衰えはなく、
今日における猟奇殺人事件にもしばしば引用されるほどだ。
「羊達の沈黙」のハンニバル博士も、
ジャック・ザ・リッパーを参考にして描かれたとさえ言われる。
無論、真の犯人は今日に至るまで明らかにされていない。

しかし、事件から100年も立った今となって、
真犯人の目星がつき始めたという。
事件はもうとっくの昔に時効であるし、
数少ない貴重な証拠品も時とともに劣化の道を辿っている…
が、ここにきて、いや実は当時から怪しまれていたある人物に
再び脚光が浴びるようになった。
容疑者として挙げられているのは、
イギリスの偉大なる印象派画家の巨匠ウォルター・シッカート、
その本人だったという憶測が水面下で囁かれているのである。
だが残念ながら、彼は1942年に没しており、
すでにこの世の人間ではなくなった。

ウォルター・シッカートなる人物は、誰が見ても極めて容姿端麗で、
穏やかな物腰から発せられる会話は知的で
ウィットに富んだ完璧な紳士であり、
何よりも著名な画家という名誉ある地位も持っていた。
だが、その華麗な人生の裏側に隠されていた彼の屈折した性質は、
生まれつき性的不能者でサディスト、
加えて幼少時代から厳格な父親に逆らえなかったという抑圧から生まれた。
そしていつも冷淡で自分にしか関心がないという性癖も
犯罪に加担した大きな要因ではないかと推測されている。
彼が生涯被っていた化けの皮を一枚一枚剥がす時、
いくら善良な市民に化けようが、
本質的には悪魔のようなサイコパス=精神病質者だった、という本当の顔が現れてくるのだ。

サイコパスとは、基本的に下記のような特徴があるらしい。
①口達者である
②自己中心的で傲慢である
③良心の呵責や罪悪感が欠如している
④共感能力が欠如している
⑤嘘つきで,ずるく,ごまかしのうまい
⑥芝居がかっていて、感情が浅い

更に彼らは法を犯すこともなく,かなりうまく社会に溶け込んでいる。
しかも、やっかいなのは上記を駆使するおかげで、
一見非常に魅力的でカリスマ性を備えている場合も少なくない。
弁護士,政治家, 医者,精神科医,学者,傭兵,警察官,
カルト教団のリーダー,軍人,実業家,作家,芸術家といった職業に
まぎれていることが多いという。
けれどこういう人たちにしても,とても自己中心的で,冷淡で,
人を操作することが非常にうまい。
知能レベルが平均以上に高く、高学歴で,家系がよかったり,
専門的な職種についていたり,環境がよかったりするおかげで,
見た目は正常に見え,比較的無難に欲しいものを手に入れている。

こうして見ると、天才肌的要素がありつつ、
普通に生活する上では、
まともな人間となんら変わらない気がするのではないか?
しかし、このタイプの多くは人を殺すことに喜びを感じるのだ。
人を殺すためには、相手を丸め込んで自分を信じさせなければならない。
だから、嘘をついて、芝居をする。
もちろんそこに、自責の念は皆無である。

ならばどうして、こんな偏った共通点が発生するのか?
はっきりと断言できる原因は、専門家も今だつかめていない。
個人差や環境によって、
共通点の組み合わせに無数のパターンがあるからだ。
だが、ヒントは幾つかある。
アメリカの科学的な調査によれば、
犯罪者のうち、約80%が幼児期に親から虐待を受けており、
そのうちの約50%が脳の前頭葉に異常があると判明している。
感情をコントロールしている前頭葉に障害があるということは、
正常な感情表現ができず、暴力をふるったり、
衝動のまま殺人を犯すことに対して自制がきかない。
そして、殺すことに、常人が持つような
罪の意識や悔恨の念がまったくないということだ。
ないというより、脳の機能上持てないといった方が正しい表現かもしれない。

現在、世界保健機関(WHO)では、
最初から前頭葉を含めた脳に正常な働きが見られないためにおこる精神病質者を、
「非社会性人格障害」という疾病として分類している。
こうして考えると、脳における障害に対しての処置は難しいけれど、
子供に理由も無く暴力をふるったり、虐待することを避けることで、
トラウマから生まれる大半の犯罪は未然に防げる気がする。
だから私達ができることっていうのは、
当たり前のことだが、子供たちを愛してあげることから始まる。
やっぱり、愛ってやつがないと人間はまっとうに生きていけないんだよね。
その上、何度も確認しないと不安でしょうがなくなるなんて、
つくづく、人間ってやっかいな生き物だと思うよ。

余談だが、
前回、戦争時における兵士の性質について述べたように、
全体の中で20%は精神病質者がいるとの分析があった。
これは、どうやら人間界だけの現象ではないらしい。
たとえば働きバチを例にあげると、
一つの巣箱にいる、働きバチのオスの2割がきちんと働かずに、
ただブンブン飛び回るだけだそうだ。
そして、この怠け者(?)の働きバチを全て取り除いて、
残りの8割の真面目なハチだけを巣箱に残し、
再び観察を続けると、今度はその8割の中からまた20%の確率で、
まったく役に立たないハチが出現してしまう。
これを何回繰り返しても、同じ結果が生まれるのだという。

つまり、永遠になくならない、謎めいた20%のマイノリティ要因。

う~ん、私達がいる世界ってのは本当に不思議でいっぱいあふれてるね。
追いかけても追いかけても、
テーマとネタに尽きない場所で、日々生きているわけです。
尊厳と驚異に、思わず合掌。

さてさて、今年最後の締めくくり。
狂気と天才は紙一重。
だったら、自分はどっちでもないな。
というか、狂気はやっぱり勘弁して欲しい。
自分の脳に、決して狂わないようにお願いします。
狂気ってのはきっと天涯孤独で、
自分の内側で際限なく悶え苦しむんだろうけど、
それ以上に、周りの人をもっと苦しめ、不当に傷つけてしまう。
親兄弟も友達も、愛する人も。
それだけは、絶対にしたくない。
大切な人が悲しむ顔は、いつだって一番見たくないもの。

だから、今ここで自分は一人で生きているわけじゃないと、
心の奥底からかみしめられる喜びを与えてくれている、
多くの皆さんに、ありったけの感謝の念を込めて。
いつもたくさんの愛と励ましを、大きくて温かい支えをどうもありがとう。
そんな心やさしいあなたに、
来年も、限りない幸せと多くの笑顔が降り注がれますように。


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コトダマピース 16詩*『道程』
2007-12-30 Sun 18:17
『道程』

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守ることをせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のために
この遠い道程のために


                     【 高村 光太郎】


 「生命を奪うこと」~三部作~
*第二部*

いつかの深夜番組で、ある一人の男性が取材を受け、衝撃告白をしていた。
東大卒の50歳。
仕事は塾の講師。
見た目は小太りで眼鏡をかけていて、頭はすっかり禿げ上がってる。
服装は事務員みたいな地味なベージュのジャケットで、終始憂いのある表情を浮かべる。
何だ、ただの普通のオヤジじゃないの。
しかもまるで理不尽にリストラされた人のような、行き場を失ったような暗いオーラ全開で。
自宅の薄暗い蛍光灯の下でインタビューを受け、猫背気味にボソボソ答える彼を見て、
あまりにもつまらないと判断し、チャンネルを変えようとした・・・
その時。
平凡を絵に描いたようなその男性がおもむろに立ち上がり、しばし部屋から消える。
待つこと数十分、再びカメラの前に現れた彼は、もはや「男性」ではなかった。
そこには全く別人に成り代わった、一人の”女”が立っていたのである。

そう、彼の趣味は女装。
最近はこの趣味が実益を兼ねるようになって、女装サロンを経営しているのだという。
自身のブログやHPでも、その見事な艶姿ぶりをを頻繁に公開しているそうだ。
しかし、いくら派手な服装と化粧を施した女に化けても、
その全体像自体には相変わらず覇気がない。
場末の売れないスナックのママみたいな、
世間に倦み疲れたようなどんよりとした暗さが全身から滲み出ている。

彼が、女装をするようになったのには理由があるらしい。
何年か前に、実の父親が死んだことがきっかけだったという。
男…いやその女は淡々と語り始めた。
「 父親をとても尊敬していました。
 でも、ガンが発覚して、知った時はもう手遅れな状態でした。
 死ぬ直前、父は病室のベッドで、生命維持装置やら、点滴やら、それはもう痛々しい限り 
 で、息も絶え絶え横たわっていました。
 その状態から察するに、私はもうダメだと思ってたんです。
 先生も長くはないとおっしゃていました。
 ある日、父の容態が悪化し、一瞬心臓が停止しました。
 その時、私は先生に
 ”延命措置はいかがいたしますか?”と聞かれたんです。
 そこで、私は迷いました。
 このまま意識もないまま、生命維持装置と点滴でただ生かされるだけなんて、苦しいだけだと思いました。
 それならいっそ、早く楽にしてあげたいと考えて、先生に医療装置を外してもらうことにしたんです。
 そして、父は静かに息を引き取りました。
 後日、お葬式で父の会社の部下や知り合いが皆さん、口を揃えてこうおっしゃいました。
 ”素晴らしいお父様だったのに、どうしてこんなに早くに逝ってしまわれたのか…”
 それを聞いた時、私は思ったんです。
 皆から尊敬される父を殺したのは、他でもない”私”なんだと。
 あの時、私が延命措置をしていれば…父はまだ生きていたかもしれない。
 でも、しょうがなかったんです。
 ああするしか、私には他に選択の余地はないと、そう愚かにも判断してしまいました。
 死ぬほど、後悔しました。
 お葬式が終わってからもずっと自分を恨み、憎みました。
 それで、もう何もかも捨てたくなってどうしようもなくなって、やけくそになって…
 ある日、思い切って街に出たんです。
 女の格好をして。
 通り過ぎる人たちは皆、すれ違いざまに私を見ました。
 その視線を感じたとき、何故かものすごい開放感があって。
 そして、救われたんです、私の心が。
 それ以来、女装をすることは私にとって、精神のバランスを保つ行為なんです。
 そして、全国にもきっと私のような人間は沢山いると思うんです。
 だから、勇気をあげたくて。
 私は女装してるんです。」
 
これ、皆さんはどう思いますか?
私的には正直申し訳ないけれど、あ、この人、病んでる、と思った。
父親を失ったショックと傷が、まるで癒えてない。
なんかこう、健全な開き直りがないっていうのかな?
美輪さんとかIKKOさんみたいなさ、悟りというか独自の生き様というか、たくましい覚悟というか、
そういうのをあまり感じられなくて、
どっちかっていうと、説明しがたい切ないものを受け止めざるを得なくて。
そこから察するに、彼はもともと昔からゲイやらニューハーフの素質があってやってることではないんじゃないか?と感じたわけ。
つまり、父親を自ら殺した(と思い込んでいる)ことによって、自分の中の「父性」な部分を失ってしまったんだろうな、と。
だから、きっと好きでやっている以上にリハビリ治療なんだよね、彼にとっての。
いや、むしろリハビリになっていない可能性もある。
このまま死ぬまで、父=男性要素から目をそらし続けるのなら、
トラウマは一生消えないかもしれない、彼の場合は。
父親の死をきちんと受け止めた上で、
女装をするなら何か一線を越えた潔さみたいなものがあるのだろうけど。

それでも現段階で、
彼は(思い込みの部分が大きいが)人を殺めた罪にさいまれている一人である。
そして、これもある意味、「親殺し」に違いない。
もちろん、彼の場合は神様から大きな等価交換を余儀なくされた。
激しい痛みと悲しみを伴いながら、自分の中の父性さえ犠牲にするという苦しみを受けてしまったのだ。
日本における「親殺し」っていうのは、両親(特に父親)との摩擦が少なくなった現代っ子にとっての、
親を超える儀式に相当する行為なのだそうで。
人間は、成長していく段階で、どうしても親を超えなきゃいけないんだね。
その葛藤が、主に思春期に爆発するらしく、そこで子供の中で発生した感情の坩堝を両親、
もしくは祖父母等の他の家族、そして社会がきちんと真正面から受け止めて、軌道修正してあげないといけないんだって。
だけど、今の世の中は核家族や地域社会が崩壊してしまっていて、
本来はあるべきはずのクッションが極めて少なくなったから、
子供自身で必死に解決しようとしているの。
それが、「親殺し」という最悪かつ究極の形で表れ始めているというわけ。

だけど、親だって完璧じゃない。
一人の人間だもの、必死に生きてるんだよね。
自分の子供や家族を守ろうとして、現代社会の矛盾と戦い続けている。
親は親、子供は子供って線引きするんじゃなくて、
役割を頭から押し付けるのではなくて、もっと寄り添って、
お互いの立場を理解し合うってことが、やっぱりこれからはもっと必要だし、
何より大事にしていかなければ、
この世界は一体どうなってしまうんだ?ていう不安はずっと消えない気がするよ。

これは、なにも親と子の問題じゃないね。
もとを正せば、人間同士の当たり前の部分だから。

来年以降はもっと、こうした当たり前の事に力を入れて生きていこうと思う。
「あなたがいてくれて、本当に良かった」っていう感謝の気持ちを、
誇らしく胸張って伝えていけるように。


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コトダマピース 15詩*『地球の悲しみを背負う者たち』
2007-12-28 Fri 00:57
『地球の悲しみを背負う者たち』

その時ふと単純なことに気づいたんだ。
結局人がきれいになるということはさ、自分の汚れをどこかに捨てているということなんだなって。
どこかに押しつけてる、汚れをね。
その汚れっていうのはずっと消えないわけね、どこかに行ってんだよ。

でね、人と人の関係の中にもそれがあると思うんだ。
それは貧富の格差にも言えることなんだけど、この世界には身ぎれいな人間がいる一方、
苦しみだとか汚れみたいなものを、引き受けている人間がいるんだね。
例えば、インドとかアフリカの村にいくと、
飢えた子がたくさんいてハエがたかるくらい本当に汚れているんだけどさ、
それは地球の豊かさを享受してる身ぎれいな人間の汚れとか苦しみとをその子たちが引き受けてるっていうのかな、
なんかその、そういう風に俺には見えるんだな。
それは俺が勝手に作った理屈かもしれない。
だけど理由をつけてやらんと浮かばれないだろ。
単なる犬死でただ七転八倒して死にました、
「あぁ、神様なんていない」っていうような、そういうとこで終わらせるというのは、
やっぱり亡くなった人もかわいそうだし、浮かばれない。
こちらの心もおさまらない。どこかで折り合いをつけてあげる。
それが仮に理屈であろうと、必要なことなんだね。

                                  【 藤原 新也 】


 「生命を奪うこと」~三部作~
*第一部*
 
 もうすぐ2007年が終わろうとしている。
今年は、格差社会、年金問題、高齢少子化、偽装問題などという言葉が、世間やメディアを賑わせたが、
個人的に気になったのは、例年にも増して、不可解かつ不快な殺人事件、特に「親殺し」がすごく多くなったな、と思う。
未成年者のみならず、高齢者の事件も多発している現状。
年を追うごとに、「人を殺す」形態や動機が、どんどん歪んでいくように感じる。
そして、殺人を犯した状況下の心理状態も非常に掴みづらい。
犯罪心理学に当てはまっているような、いないような、専門家の指摘も曖昧でイマイチよく解らない。
恐らく、最近の事情が複雑過ぎて、まだきちんと研究できてないのかもしれない。
実は「親殺し」というのは、近年の日本人独特の現象なのだそう。
現代の日本人に一体、何が起こっているのだろう?

この間、TVで「手紙」という邦画を見た。
殺人を犯した加害者は、人を殺めたという罪をつぐなうだけでは許されない。
あとに残された被害者側の遺族はもちろんのこと、
加害者側の親族をも苦しめるのだという確たる事実。
こんな時代だからこそ、あえて今放送したのだろうか?と思わず、制作者側の意図を推察してしまった。

「人殺し」という心理について、
猟奇殺人や精神病質的な犯罪者というある種の特異な視点からではなく、
戦場における一般人の感覚から分析したアメリカ人の軍事資料によると、
なんと第一次、第二次世界大戦中で健全な精神の兵士達の8割が、人を殺す行為を避けていたという驚愕な事実が浮き彫りになったそうだ。
敵との遭遇戦に際して、火戦に並ぶ兵士100人中、平均して約15~20人しか「自分の武器を持っていなかった」のである。
しかも、戦闘状態が一日中続こうが、三日、一週間と長引こうが、つねに一定だったらしい。
なら、最前線で銃持って結局、何してたのよ?というと、
武器を持たずに仲間の救護をしたり、弾倉の補充をしたり、
あらゆる理由で殺人に手を染めることを避けまくり、それでも終いには逃げ切れなくなると、
銃を持ちつつ空に向かって空打ち、もしくは敵の焦点を避け、あえて頭上を狙ったりと
なんとか敵を「殺さないように」工夫をしていたというのだ。

それでは、全体の20%は?というと、これがいわゆる生まれもっての異常な攻撃的気質を兼ね備えた精神病質者である。
そういう人間は特殊コマンド部隊の精鋭に多い。
国家命令のもと、犯罪に問われず、自らを正当化して殺人を実行し、
そこから得る屈折した快楽を、思う存分満たすことができるタイプの人間達。
しかし、こうした集団によって、世界大戦の勝敗が決定されたという皮肉な結果が生じた。

このことから導かれたのは、つまり、普通の人間は本来、人間を殺すことにすさまじい程の抵抗感を持っているということである。
故に、ベトナム戦争では、この結果をもとに、一般兵士たちに様々な軍事訓練を施し、
先の大戦よりずっと的中率を上げたそうだが。
それでもベトナム戦争で人を殺してしまった帰還兵達の大半が、
特殊訓練を受けたにも関わらず、アメリカ本国に帰った後に、
かの有名なPTSD(心的外傷後ストレス障害)などの病に悩まされることになった。
今でも、勇敢な大尉クラスの人間ですら、人を殺めた罪にさいなまれ続けているという。

まともな感覚の持ち主が、人を殺すために必要な条件は相手の人間を「物」として捉えることが一番効果的であるようだ。
そうなるための方法は、私達には全くもって必要のないものであると判断し、あえてここでは割愛する。

冒頭の現代における殺人犯罪から、何故、こうした下りになったかというと、
時代を超越して、人間の本能的には同族を殺めるという禁忌行為に対する罪の意識が
異人種間に共通して根深く存在するということを伝えたかったからだ。

他人を殺すことは罪、そして自分自身を傷つけ、殺めるのもやはり罪に違いない。
人間は生まれながら罪を背負って生まれるなどという性悪説もあるけれど、
所詮は他人の物差しで測られた扇動的な理論。
どんなに偉い人間が言ったとしても。
不意に死にたいと思う気持ちは、大概の人間なら一度は経験することなのかもしれない。
しかし、そう考えた人は皆、何かあきらめのつかない想いがあって、この世に引き止められたのだ。
そして、今日も生きている。
極めて幼稚かつエゴイスティックで、大体が衝動的な犯罪と理不尽な自殺者が増える一方の日本社会で、生き抜こうとしている私達に託されている使命とは一体、何なのか?

あなたが必死に生きていくことを、誰も望んでないなんて、
自分で決めつける前に、もっと見渡すべき世界があるんじゃないかな?
望まれて生まれてきても、自分の誕生を祝ってくれた親兄弟を殺され、
一部の政治犯やテロリストに人生を翻弄された挙句、
犬畜生のように扱われて、短命を余儀なくされる子供達が世界の至る所に存在する。

何の罪もない彼らのために、私達ができること。
それは、「自分」という人生を生命が続く限り、精一杯謳歌することだ。
そうすることでしか、彼らに示せる命の証明は、ない。

この世界に生じる醜さも美しさも
目を開いて、真っ直ぐ見つめて、心と身体でひしと感じる。
怒りと悲しみに襲われても、人を殺める勇気などない。
否、そんな虚勢を張った偽りの勇気はいらない。

湧き上がる憎悪は、その対極の愛情に費やせ。
その憎しみのエネルギー、一度リサイクルしてみようよ。
そしたら、全く違う形の有機物になって、
あなた自身を救う手段に変わるから。

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コトダマピース 14詩*『脳と心』
2007-12-15 Sat 01:39
『脳と心』 

  この卵型の骨の器にしまってあるものは何?
  傷つきやすく狂いやすいひとつの機械?
  私たちはおそるおそる分解する 
  私たちは不器用に修理する
  どこにも保証書はない
  その美しいほほえみの奥にあるものは何?
  見えるものと見えないものが絡み合う魂の迷路?
  私たちはおずおずと踏み込む
  私たちは新しい道標を立てようとする
  誰も地図はもっていない 

  しかもなお私たちが冒険をやめないのは何故?
  際限のない自問自答に我を忘れるのは?
  謎をかけるのは私たち自身の脳
  謎に答えようとするのも私たち自身の脳
  どこまでも問い続け・・・いつまでも答えはない

                                【 谷川俊太郎 】


「あなたは、どんな人ですか?」
そう尋ねられたら、一体なんと答えるだろう?

私なら、確実にこう答える。
「根っからの矛盾屋」
この言葉に、一点の迷いもなく、嘘偽りもない。
ましてや、そのように開き直って宣言することに、逆説的な矛盾すらない。

つまりは[あまのじゃく]なくせに、ここで正直に認めてどうする?
だけど、矛盾って、いくつか重なってしまえば、意外と肯定に結びついてしまうものなのだな、これが。


 あらゆる情報が新旧問わず忙しく飛び交う都会では、若いサラリーマン層に人気の、有名なフリーペーパーがある。
もともと25歳前後の男性サラリーマンをターゲットにしていたはずが、あれよあれよという間に世代や性別を越えた読者を取り込み、気づけば爆発的な大ヒット商品となった。
これは、大手出版社のRから定期的に発行されていて、大抵、地下鉄やコンビニなどの空き棚に、これでもか!という程、ごっそりと積まれている。
しかしながら、小1時間もすると、きれいさっぱりなくなってしまう、競争率の高い代物。
特に、朝の早いラッシュ時なんかは。
堅苦しい社会に飲み込まれつつ、型にハマらないことをポリシーとする象徴のようなロン毛にスーツ姿の会社人達が、電車の中などでバイブルのように手にしている。
この一冊を読むことで、時代の流行を手短に読み取ることができるのだ。

その編集部が、この雑誌を立ち上げる際に、独自のアンケート調査をしたという。
最初は、ネットで約1万人に意見を聞いた。
「普段から新聞を読んでいますか?TVを見ていますか?」
答えは8割が「NO」だったらしい。
それで、今度は直接200人に面と向かって会い、同じように話を聞いてみた。
すると、大半が「カバンの中には日経新聞が入ってます。TVはあんまり見ないけど、たまに情熱大陸とかプロジェクトXは見る」
それって、新聞読んでんじゃん!
TVもしっかり見てんじゃん!
という、驚きべき根本的な矛盾が炸裂したという。
それゆえに、何故こんな不可解な矛盾が生じるのだろう?と当初は随分、頭を悩ませたそうだ。

そこで、一つの結論として。
結局、実際のところ、皆世間の流行に無関心なふりをして、本当はすごく知りたがっているんじゃないの?

 これはごく個人的な考察だが、最近の日本人は(自分も含め)随分と「あまのじゃく」な人が増えたのかな、と思う。
「あまのじゃく」な性質については、心理学の分野でもフロイトを筆頭に、余すところ無く研究し尽くされていて、専門用語として「反動形式」といわれている。
よく見かけるのは、小学生の男の子なんかが、気に入った女の子に対して、本当は大好きなのにわざと冷たい態度を取ったり、いじめてしまうという屈折した愛情表現など。
つまり、「反動形式」とは、簡略化すると、自我(心)の中に許し難い衝動・情動とその派生物が生じてくるとき、その正反対の意識・態度が生起する事によって生の衝動や情動と距離を取るような防衛機制の一種なんだそう。
いわゆる、自分を守る手段。

自分を守るという行為が必要になる状態は、得てして外部に己をむざむざと侵食しようとする「敵」が存在するからだということになる。

ということは。
現代に生きる日本人はおのおの、人知れず何かしら戦っているんだな~、というところに帰結せざるをえない。

すべからく人為的に仕掛けて、あくまでも物的な戦争が無くても、人間は生来何かと戦わずにはいられない生物なのだろうか?
誰かを傷つけ、何かを壊して、果ては自分さえも傷を負う。
これではまるで、近代の人類が目指すべき真の平和とは程遠くなる一方だ。

そして、冒頭に述べたように、「あまのじゃく」の代表のような私。
自動販売機で、缶コーヒーを買おうとして、何故か隣りの緑茶のボタンを押してしまう。
缶コーヒー一つ買うにも、無駄な防御システムが作動する。
格闘する場所がいたってお粗末。
それでも、バカみたいに己の意思を裏切る。

言ってみれば、自分をね、裏切ることは簡単なのだよ。
でもね、それは明らかに反則行為なわけで。
認められたい、愛されたい、注目して、受け止めて欲しい。
そんな正直な心の叫びを、知っててわざと無視している。

ひねくれるって、自分をないがしろにすることじゃない。
もっと自分で想定できないくらい、自身を、大事な人達を、この世界を、心がねじれるくらい認めて、バカ正直に愛することなんじゃないかなって思ったりする。
醜いことも、罵倒されることも、固く信じて罵詈雑言を跳ね返す力。
そういうことをストレートにできてしまうのが、実は異端とか変人とかっていうひねくれ者の強みであるのかも。

こんな不安定な世の中だから、いちいち見るもの聞くもの全て疑う事ばかりで。
けれども、そんな時代に生きていく自分をまずは誰よりも自分が理解してあげなきゃ、先に進めない気がする。
ん?この先って?
それは、あなたが心から描く、決して譲れない大きな夢。
そのすべてが実現される、願ってもみない「あまのじゃく」な未来ってこと。


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コトダマピース 13詩*『13階は月光 』
2007-12-05 Wed 01:02
『13階は月光 』


月の光の照る辻(つじ)に
ピエロ ピエロ ピエロさびしく立ちにけり

ピエロの姿(すがた)白ければ
月の光に濡れにけり

あたりしみじみ見まわせど
コロンビイヌ コロンビイヌ コロンビイヌ コロンビイヌ コロンビイヌの影もなし

あまりに事のかなしさに
ピエロ ピエロ ピエロは涙ながしけり 涙ながしけり

                        【 堀口大學~月光とピエロ~ 】
 

     
 「13」という数字が好きだ。
多分、この日が自分の誕生日だという、ごく単純なものかもしれない。

しかし、この数字は随分と世界中で忌み嫌われる数字である。
ことに俗世、特にキリスト教圏の国では最も不吉とされ、「13恐怖症」といった心理学的な病気すら存在する。
何故、クリスチャンは「13」が駄目なのか?
ここに、思い当たる限りの理由を挙げてみた。


① アダムとイブ
ヘビに誘惑されたイブがアダムに知恵の実を食べさせたのも13日の金曜日

② ノアの箱舟
ノアの箱舟の大洪水も13日の金曜日に起こったとされている

③ アベルがカインに殺害された日、すなわち”人類最初の殺人”の日もまた、13日の金曜日であったと言われているのである

④ バベルの塔
バベルの塔をつくろうとして、神の怒りを買い、言葉が通じなくなってしまったのも13日の金曜日

⑤ イエス・キリストと12人の弟子達が最後の晩餐を囲んだ時の、テーブルについた人数が13人であった

⑥ イエスを裏切ったイスカリオテのユダは「13人目」となるため

⑦ イエスの処刑の日が13日の金曜日であった

⑧ タロットでは死神をあらわす。

⑨ 死刑台の階段は13段あり、「十三階段」と呼ばれている。

⑩ イスラエル神殿をエジプトが破壊されたのも、13日金曜日

⑪ 魔女とフリッガ信仰
キリスト教が広がっていくにつれ、古来の神やその信仰者たちは異端者であり、魔女であるとして森や山の中に追いやった。
しかし魔女として追放された巫女(みこ)たちは、フリッガ信仰の再興を願い、毎週金曜日、つまりフリッガの日に11人が集まり、そこに女神フリッガと悪魔を加えた13人が、キリスト教徒にどのように災いをもたらそうかと相談するようになった。そのため北欧では、金曜日は「魔女の日」と言い伝えられている。

⑪ ノルウェーの神話において、ヴァルハラで12人の神が晩餐をしている最中に「招かれざる13番目の賓客」としていたずら好きのロキが現れるという逸話がある。そこでロキは、ホデル(暗闇を司る盲目の神)をそそのかして、バルドル(美と悦びの神)をヤドリギの矢で撃たせるのだ。
「そしてバルドルは死に、世界は暗闇、そして悲嘆の声に包まれる。」
それが不幸なる13の起源となる。

ここまでは西洋の古いお話。
だが、ここで視点を変えて、以下にあげる中国の例では逆に吉数とされているし、古代マヤ文明では最高神に与えられた数字である。
 特に、マヤ暦は別名「神聖暦ツォルキン」と呼ばれ、実際に「13の月の暦」というものが存在するのだ。
 
⑫ マヤの人々は、この宇宙は13層の天空からできていると考えていた。そのもっとも上の13層の天空にいて宇宙全体を支配しているのが、唯一にして最高の神『フナブ・クー』。その姿は人には見えず、あまりに崇高な神なので、形もないとされてる。
これは「全能の力」を意味している。全能の力と幸運を人に与える最高の守護数。

⑬ 中国の一部地域などにおいて13を吉数とする地域も存在する。広東語では「十三」の発音が「實生(実るという意)」に似ていることが由来となっている。


そして、更に現在においては、欧米のマンションやホテルには13階というフロアが見当たらない。
12階の次は、いきなり14階に飛ぶ。13階をつくってしまうと買い手がつかなくなるからだ。
また、14人集まるはずのパーティーに1人が欠席して13になると、あわてて別の人を招待することがある。また出席者が13人になるようなパーティーの計画はしないという。結婚式場では、「13日の金曜日」には予約が入ることはほとんどない。

以上が、太古から世界の至る所に受け継がれる、由々しき「13」の由来である。

 さて、改めて「13」について。
数学的に言えば、13は不特定な素数である。
つまり、割り切れない、不安定な数字。
12に対し、12に付す数でありながら割り切れない素数である13は、その調和性を乱すものとして「悪い数」だと考えられたといわれている。太陰太陽暦では数年に1度1年が13か月(閏月)になり、13は普段とは異なる状態を表す数として認識されることも少なくない。
実際、この不協和音が人々を不安に駆り立たせる理由の一つなのかもしれない。
でも、この一見バランスが良いような悪いような、解釈によっては善にも悪にも属する、はっきり言ってどっちつかずの不安定さを、私はこの上もなく愛する。
 まるで、人間の心のようじゃないか。
いつまで立っても、きちんと調和の取れない理性と感情のシーソーゲーム。

だけど、それでいい。人間は。
たとえ、この地球上で最も愚かな生物だと同族間で罵り合おうが、けなし合おうが、互いに自由に生きようとする意志は誰にも剥奪できはしない。
だからといって、傍若無人に生きろと勧めているわけじゃあない。
悪い心があったとしても、そこから不意に善に転ずることもあり、またその逆のしかり。
要は、不安定だからこそ、心という暴れ馬を管理する本人の意識次第で、何処にでも行けるし、何にでも変われるということである。
それこそが生きる醍醐味。
全知全能の神すら驚く、未知数で無尽のエナジーなのである。

きっとあなたにも宿る、無限大の飽くなき衝動。
限界まで上り切った階段を超えた向こう側、13階目の月の光のもとで花開く、美しき魂の躍動。

人間は、己の限界を突破した時に初めて、真の存在価値を自身で認めるもの。
「13」とはその力を表す象徴だと、私は信じてやまない。

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コトダマピース 12詩*『友情の極意』
2007-12-01 Sat 01:33
『友情の極意』


◆ 往く者は追わず、来る者は拒まず。
                             【 孟子 】


◆ 友人に不信をいだくことは、友人にあざむかれるよりもっと恥ずべきことだ。
                             【 ラ・ロシュフコー 】

◆ 人々は悲しみを分かち合ってくれる友達さえいれば、悲しみを和らげられる。
                             【 シェークスピア 】

◆ 友人の果たすべき役割は、間違っているときにも味方すること。
正しいときにはだれだって味方になってくれる。

                             【 マーク・トウェーン 】

◆ 友人とは、あなたについてすべてのことを知っていて、それにもかかわらずあなたを好んでいる人のことである。

                        【 エルバード・ハーバード  】

◆ 立派な人間の友情は、温かいからといって花を増やすこともなければ、寒いからといって葉を落とすこともない。どんな時でも衰えず、順境と逆境を経験して、友情はいよいよ堅固なものになっていく。

                             【 諸葛亮孔明  】

◆ 友は喜びを倍にし、悲しみを半分にする
                             【 キケロ 】



 この間、見たDVDはハリー・ポッターの最新版。
幼げな子供からたくましい少年へと成長を遂げるハリーが終始思い悩むのは、最大の敵であるヴォルデモードに一人立ち向かおうとする中で、思春期にありがちな淡い恋愛や、家族以上に自分を知る友情の問題であった。
闇に潜むヴォルデモードと何かしら共通点があることを余儀なくされつつ、自分との決定的な違いは何かと聞かれ、ハリーが最後に悟ったかのように吐いた短い言葉は、
「Someone fightig for(守るべき人がいること)」(だったと思う)。

それで私は?あなたは?
What are you fighting for ?(何のために戦っているの?)


 自分が生きてきた、これまでのほんのわずかな人生を振り返る時、ふと思いを巡らすことがある。
それは、この世で確かな産声を上げ、生を受けてから今までに、一体どれだけの人間と出会ってきたのだろう?という確認しようのない無謀な問い。
そして、そこで他者と交えた生命の紡ぎ糸。
あちこちで行き交う魂の大きなタペストリーの中、私は一瞬でも必要とされたのか?

それよりまずは、誰かに必要とされたい、この不可思議な衝動はどこからやってくるのか?
性懲りも無く、絶えずいぶかしむ私を、この不埒(ふらち)な世界に留まらせるのは、いつの時も訪れる他者との交わり。
 否、「友情」と名づけられた、ある種あいまいな関係性。
それでも、ひとたび触れてしまえば、またとはない強く激しく心を揺らすもの。

恐らく、人一人の運命を揺るがす最強の余震。

私はいつでも、これを強く感じてしまう。
ありふれた日常で、あるいは予期せぬ人生の転機で。

 幸いなことに、このブログは多くの友人達が主体となって目にしてくれるからこそ、確固として成り立つものである。
そもそもブログを立ち上げた意図は、だらしない私を見放さず、いつも支えてくれている友人のためのささやかな罪滅ぼしと言っても過言ではないかもしれない。

これはキレイ事か?もしくは、世迷言?

 いいや、そうとは言い切れない。
何かしら不可解なパワーがおのずと各方面から寄せられ、本来面倒くさがり屋な私を無性に駆り立てている。
たとえどんなに多忙な身にあっても、ついついパソコンの画面に向かわせる原動力になっているのは否めない事実。

一言で言い表せば、すなわち、私はなんだかんだ言って、恵まれた幸せ者なのだと思う。

ここで『幸せ』な状態を論ずるよりも、まずは自らを闇雲に奮い立たせる『友情』について述べておきたい。

自分が今まで出逢ってきた人々は数知れない。
その中で、実に多くの助け舟を得たことは、まだまだ短い人生の中において、思いのほか大切な要素である。

 私がこの世界で生き抜こうとしていること。
それは、いつも人生という予想もつかない旅路(アトラクション)の途中で、親しい友人の顔を思い浮かべては、脆い自分がひどく情けなく感じるから。

全てのわずらわしい物事から、つい逃げ出したい気持ちに駆られ、耐え切れない苦しみを理由に、ぶち当たった障害を避けようと弱気になってリタイアしたいと願っても、安々と許されないような気がして。

大げさな言葉は無くても、ただその人たちを想うだけでグッと心のブレーキがかかる。
そんな人々に、自分は運良く関わりを許されてきた。

私が歩んできた未完成の人生図をおもむろに広げた時、ざらついた図面を埋め尽くす幾多の人型の轍(わだち)。

ねぇ、いくら馬鹿げた行為に身をやつしても、変わらず見守ってくれる?
私が向かう行き先に、途方も無い茨がたくさん張り詰めていても、止めないでいてくれるかな?
難しい理論(ロジック)を取っ払って、その奥から押さえ切れない感情が溢れ、行く手を専攻しても、何も変わらず友達のままいられるものなのかな?

 両の目を見開いて、飽きる程、探しても探しても、結局、探し切れない。
人間が抱く欲望は尽きなくて、自分の気持ちを本能のまま忠実になぞれば、そんな理不尽な想いばかりが溢れて。

まったくの嘘じゃないんだよ。
ただ、脈略の無いことも、時に包み隠さず伝えたいと欲している。

かといって、取り返しがつかないほど、みすぼらしく壊れたわけじゃない。
利口に生きようとすることが、どんなにわずらわしいかを訴えたかっただけ。

 親しく想うあなたにね、全てを委ねたいと思ったの。
時には、馬鹿も承知で、すました羽目も外したい。
そして、そんな私がいることも少なからず知って欲しい。
そう願って、甘えた私はまるで子供のように、次から次へと大人気ない我が儘を繰り返す。

私は多くのものを、あなたに望んでしまっているかもね。
だけど、無防備に期待してしまうんだ。

だって、あなたはすごく輝いているんですもの。
どんな状況に置かれても、沈んで閉じてゆく私を見ていてくれる。
たとえ、どれだけ苦しくても、ほのかな優しさで包んでくれるから。

いつか、その恩返しは必ずするね。
あなたがいてくれたことで、私がこの浮世で揺らぐ心を見失わず、立っていられることを。


永遠に果てることのない、純粋無垢な約束。
叶えたい夢が冷めないように。
祈りながら、突き進む有限の時間(とき)の包囲網。
限られているから、愛したい。
出逢って、触れて、ひしと感じる。
二つとない、あなたの確かな鼓動。
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