過去から今日、今日から未来へ先人が残した言葉を贈ろう。 異なる文化と歴史の中で人類を繋ぎ続けた言霊のリース。 幾多の時代を超えて、ひとつずつ解き放つ。
 
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コトダマピース 23詩*『太陽に一番近い国』
2008-03-24 Mon 02:01
『太陽に一番近い国』

人の体の中にはいつも"風(ルン)"が通っている。
我々人間はただ身体があるのではなくて身体があるゆえに我々は感じる。
感受性があり体験することができる。
そして知ることが出来るのです。

人は生にすがり危険と死を恐れる。
死を考える人間が人を殺す事はない。

                【ダライ・ラマ~チベットの教え~】


【終わりなき魂の詩(うた)と理(ことわり)~第3章~】

~チベット回想録①~

今回は予定を変更して、現在、世論の渦中にあるチベットについて語りたいと思う。
実は事件が起きる前から、チベットに関してはあらかじめ計画していたトピックがあり、
私なりに順序を踏まえて、念入りに取り出してくるはずだった。
しかしこの度、ついに来るべきチベット暴動が起こってしまった故に、
急遽、順序を前倒して修正せざるを得なくなってしまった。
チベットといえば、チベット仏教の「死者の書」で輪廻転生や前世といったものが取り扱われている。
そもそもこのブログ内で【魂】を冠にしたサブタイトルからして、
その輪廻転生論についての検証が実はテーマの命題だったのだが、
こうも早くに論議の核をうながされるとは、
「青天の霹靂」…なんかやっぱりチベットらしい感じ。
正に今年はなんとなく予感していた「大変革」の年を象徴するような、
予定外の衝撃的な動きだ。

恐らく日本人のほとんどは、
「あ~、世界のどこかでまた今日もそんなことが起こっているのね~」的なノリに過ぎないかと思われる。
かく言う私も、チベットという国以外で起こっていたなら、無責任にもそんな感想が出たのかもしれない。
しかし、チベットはなんというか言葉では言い表せない感情の思い入れがあって、
それを今回、説明できる限り、表現していきたいと思うのだ。
多分、そうしなければいけない気がしている。
今の私が彼らのために、唯一できることとして。

今から語ることにおいては真偽の判定が難しいところだが、
率直に言うと、どうもチベットと私の間には何か深い縁があるらしい。

それをあらためて確認したのは2年前、父方のいとこのある言葉に起因する。
そのいとこは私と年は変わらないが、いわゆる超強力な霊能者に生まれついた人物で、
現在もその能力を生業にして生活しているわけなのだけれども…
余談だが、どうやら私の父方は祖父母ともにそういう奇妙な能力の家系らしい。
それで私はどうかというと、まあ、直感とか予感?とかそういうものが
人より少しばかり発達しているようだ。
たまに波長があえば、変なモノを感じたりすることもあるが、
私自身のその力はかなり不安定な部分があって、
本人的にはあまり認めていない。(というところがまさに天邪鬼)
しかし、家系的に霊能力の遺伝というのは、
あながち嘘ではないのかもしれないということは認めざるを得ない経験は少なからずしている。

さて、そのいとこと話をしているときに、
また例によって、いとこが勝手に私から何かを感じ取ったらしく、
(ごく自然にあることなので、もはやあまり驚きはしない)
「今、一瞬(私の)前世が見えた…時代はわからないけど、チベットの高僧だったんだね」
なんぞと言い出した。
当然、「ハァ?」という間抜けなことしか答えられなかった私。
それでも、構わずいとこは続ける。
「ああ、そっか、(いとこが)助けてもらったんだ…昔の(私が)何か言ってる…
『カルマとダルマ』…ねぇ、この言葉に覚えはない?」
ありませんよ、そんなもの。
でも、一つ関係があるような気がするものといえば…
この時以前に、私はチベットへ実際に行ったことがあるということだけ。
そう伝えると、「え??なんだ、もう自分でもわかってたんだ…」
何が???さっぱり意味が解かりませんけど?!
いとこと話すときは終始こんな感じである。
結局、いつも最後はこうしたキーワードをもとに自分で探しなさいと言われる。
この時も案の定、また同じことを言われてしまった。
彼女は、江原さんのように手取り足取り優しく導いてはくれない。
何故なら、全ては最終的に「自分で感じて悟ること」。
それが、一番重要なのだというスタンスを常に貫いているから。

というわけで、
まずカルマはヒンズー教や仏教でいうところの「業=因果応報」ってやつでなんとなく解かったが、
じゃあ、ダルマって一体何事??という疑問がいっぱいでネットで調べてみると、
仏教でいう「法」であり、真理や存在を表すものらしい。
…で、それが?何なの?
ダメですね…正式な仏教徒ではないので、イマイチ関連性が見えません。
それでも、この言葉は現世に生きる自分への課題なのだと、いとこは言った。
チベットの他にも前世は色々見てもらったのだが、
何故か、感覚的に今の自分に一番近い何かがあるような気がした。
…相変わらず、意味はまるで理解できていないが。

それでもいとこに言わせれば、
私は、どこか喪失していた魂の欠片をチベットで拾ってきたみたいだ。
確かにあそこで私の身に起こった事は、生涯忘れることのない衝撃的な体験を生み出した。
そして、迷える魂を抱え、一個体の肉体を持つ人間として生きていくための使命というか、
何故、自分はこの世に生まれてきたのか?という深い哲学を追求する上で、
一種のターニングポイントを迎えた、あるいはそういう非科学的な感覚を見つけた場所でもある。

次回は、そんな偶然の中の必然的であったチベット生活とそこでの不思議な体験を詳しく記したいと思う。
相変わらず、長い回想の旅路の中、
ごくごく私的な告白に付き合っていただければ、是幸いです。

私にとって、気高いヒマラヤ山脈のふもとで、
ひっそりと佇むチベットという場所は太陽の懐かしい匂いがする。
そして、この世界の中間点にして、まるで大きな原点のような奥深い思想と文化が渦巻いている。
幸運にも、その全貌のほんの上辺だけを触れることができたのだけれども、
微かでも伝えて、残していかなければならないことのような気がする。
極東の日本から愛を込めて、今もなお闘う彼らに捧げたい。
誰かを救うには、あまりにもつたなく無力な言葉の武器で。

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コトダマピース 22詩*『走る体、転がる意志』
2008-03-22 Sat 00:10
『走る体、転がる意志』

わたしは、今宵、殺される。
殺されるために走るのだ。身代わりの友を救うために走るのだ。
走らなければならぬ。そうして、わたしは殺される。
若いときから名誉を守れ。さらば、ふるさと。
若いメロスは、辛かった。
幾度か、立ち止まりそうになった。
えい、えいと大声を上げて自分を叱りながら走った。
斜陽は赤い光を、木々の葉を投じ、
葉も枝も燃えるばかりに輝いている。
日没までには、まだ間がある。
わたしを待っている人がいるのだ。
少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。
わたしは信じられている。わたしの命などは問題ではない。
死んでお詫び、などと気のいいことはいっておられぬ。
わたしは、信頼に報いなければならぬ。
今は、ただその一事だ。
走れ、メロス!

                      【太宰 治~走れ、メロス~】
                    
                    
【終わりなき魂の詩(うた)と理(ことわり)~第2章~】

今、東京ではもっぱら「走ること」が流行りなのだそうである。
この冬は各地のマラソン大会が大盛況だったようだ。
メタボや美容対策として、政府や企業が諸手を挙げて功を得た様子。
そして、各地でマラソンにランナーとして参加する以上に、
街頭で閲覧する人の数も多い。
この前の東京マラソンでも芸能人やアナウンサーがこぞって参加したせいか、
マスコミも一日中、大騒ぎだった。

しかし、冷静に考えるとマラソンというものは、他のスポーツと比べると、
得てして奇妙な競技である。
何故ならば、そこには複雑なルールや込み入った展開があるわけではなく、
ただランナーが「走っている」姿があるだけだからだ。
サッカーや野球、またはバレーボールなど他にも視聴率が高い競技と比較すると、
劇的な盛り上がりも少ない。
それでもなお、見る者を惹きつけ、
心を熱くさせる「何か」がそこに存在しているようだ。

ただ「走る」という点において、共通するものといえば、
例えば、競馬や競輪、F1レースなどがある。
しかし、これらは同時に賭け事だったり、
人間が作ったメカニズムへの尊厳などが反映されていて、
「走る」という行為自体に、重点を置いているわけではないと思われる。

確かに、「走る」側の人間は、長い距離の間で、
『ランナーズハイ』というある種突き抜けた感覚のナチュラルハイな状態に入る。
つまり、脳内でモルヒネとよく似た物質が分泌される。
それはいわゆるセロトニンというリラックス成分だといわれているが、
とにかくコイツが分泌されることによって、
肉体の苦痛から開放され、まるで天国にでもいるような気分を味わうというわけである。
よく長時間のウォーキングやジョギングがストレス解消になるといわれるのも、
このセロトニンのせいである。
ちなみにセロトニンはウォーキングで30分以上、
ジョギングで20分で脳内から分泌されるらしい。
ストレスを解消したい方にはぜひお勧めしたい。

とはいえ、今回論じている点は「走る」側ではない。
「走る」姿を見る側の人の状態、である。
人が「走る」だけで、どうしてあんなにむやみに白熱できるのか?

TVの前で解説者の声を除いて、ふと耳を澄ませば、
淡々と走るランナーの呼吸の音が響く。
どうやらこれが一つの原因かと考えた。
いわゆる「変成意識」というもの、だ。

「変成意識」とは、簡単に言えば、いわゆる催眠状態を表す。
ランナーの呼吸音がなにゆえ、催眠術と関係するのよ?というと、
「変成意識」に陥るには、相手と同じ呼吸音やしぐさに合わすことが大前提だからだ。
つまり、Aという人間がBという人間と同調するならば、
まずAはBと同じ呼吸数に合わし、
さらにしぐさや話し方を真似していく。
そうすることで、Bは自然とAの意識と同調していく…といった具合。
実は大抵の人間は日常のあらゆる場面で、
無意識にこういう半催眠状態に軽くかかっているのだという。
というのも「変成意識」に陥るのは、上記の方法以外にも沢山あるから。
恋愛なんてのもその一つだったりするんでしょうな。

とにかく、様々な疑問の中で、
一候補として浮かび上がった「変成意識」における影響の可能性。
ならば、「走る」人を見る者は皆して、半催眠状態にあるのだろうか?

いやいや、そんなことよりも本当はもっと単純な理由なのかもしれない。
「走る」というシンプルな行為の中に、人間なら誰しも本能的に「共感」するのだろう。
車や電車や飛行機などの便利な交通手段がなかった頃、
人間は自分の足で、あらゆる場所へ移動した。
そして、それはそのまま「生きること」にも繋がっていたはずだ。
かつては一日中歩いたり、走ったりして、獲物や食物を探し回った時代があった。
そうして、今この瞬間よりもっと先へ進もうと、
一方通行の限りある時間さえも追いかけた。

文明が進化を遂げる今もなお私達は「走る」人の中に、
そうしたかつての名残を見るのかもしれない。
誰かに、何かに頼ることなく、
自らの足でコツコツと築き上げていく「生きる」道のりを。

「走る」こと。
それは絶えず利便性を追求するようになった現代に生きる私達が、
何か心の片隅で忘れかけていることをふと思い出すような、
柔らかい刺激に満たされるものなのか。

当然ながら、前へ進むには、「走る」ことが必要だ。
時には歩くこともあるけれど、
まだまだこの旅の先は長い。
光も闇も突っ切って、なりふり構わず転がり込んだ風景の向こう。
そこには何が見えるのだろう?
それは、走り切ったあなたにしか見えない。
強い意志の下、きっと極上の宇宙(そら)が夢のまま広がる。
あなたの魂は絶えず肉体を走らせて、
今日も必死で探しているのだろう。
大丈夫、見つかるよ。
どんな不出来なレースにも、ゴールは必ずあるんだから。

さあ、行こう。
未だ見ぬ大勢の歓声が鳴り響く、まぶしい未来の方へ。
眠った意識よ、今走り出せ。

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