2008.07.24(Thu)
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2007.10.28(Sun)
『時という翼にのって』
◆ 時という翼に乗って悲しみは飛び去って行き、 月日が快楽をつれ戻す ≪ ラ・フォンテーヌ ≫ ◆ 時間がやわらげてくれぬような悲しみは一つもない ≪ キケロ ≫ ◆ 悲しみと喜びはかわるがわるにやってくる ≪ 作者不詳 ≫ ◆ 時が立ち、あれこれ考えているうちに激しい悲しみも薄れてくる ≪ 作者不詳 ≫ 今日は『悲しみ』について考えてみた。 上記のように、たいてい『悲しみ』は時間を経るごとに薄れ、和らいでいく、と表現される。 確かに、これは脳科学の分野においても正しいようだ。 『悲しみ』も脳にとっては、一種の情報の類に過ぎない。 そして情報は休む暇もなく、次から次へと入れ替わる。 外部からの新しい情報がどんどん蓄積されていくと、古い情報は元に保管されていた部分から別の場所に移動させられる。 だから、実際は古い情報が完全に頭からDeleteされたわけではなく、短期記憶と長期記憶に分けられて、脳に保存する部位が異なるのだ。 そして一度最初の場所から移された記憶は、取り出すのに時間がかかり、なかなか思い出せなくなる。 つまり、これが忘れるというシステムの原因なのであるが、主に短期記憶が忘却機能につながりやすい。 簡単に説明すると、短期記憶というのは、その場限りで覚えたもので、脳に情報としての刷り込みが浅い状態のことをいう。 普通の人間は、何かを一瞬で覚えるのに限界がある。 例えば、574934と並んだ数字は、一瞬見ただけで覚えるには7ケタから多くても13ケタまでしか無理らしい。だが、間にハイフンやドットといったような形が違う情報を、このように5−794−34と混ぜ込むと、もっと数が増えても記憶できるようだ。だから、電話番号やナンバープレートは覚えられるのである。 それから、長期記憶というのは、すごく強烈な印象のものだったり、何回も復唱されるものだから忘れにくくなる。 このことからもわかるように、どうやら、すべての人間、いや生物というものが生き抜いていくための学習能力を高めていくには、地道な反復作業を必然とする宿命にあるようだ。 それにしても、脳はまるでパソコンにそっくりな動きをしている。 記憶を保存するのに、フォルダを使い分けて、情報が重たくなると起動が遅くなったりするあたりなど。 脳内では海馬という部分が、短期記憶を処理しているらしい。この海馬はかなり面白い器官で、近年、脳の分野で最も研究が進んだとされるのだが・・・ 話題が完全にズレてしまった。今回はこんな小難しい話をしたいわけではない。 自分でも書いている間に、イヤになってきた。ここまで、辛抱強く読んでくれた方、どうもありがとう。 さてさて、一体何故こんな話になったかというと、つまるところ、現在のように、科学が発展してなかった時代から、我々人間は『悲しみ』と時間の関係を、難しい説明など必要しなくても、ちゃんと感覚で感じ取っていたということを言いたかったわけだ。 自分が過去において、一番強く感じた悲しみとは何であるか? そして、それは忘れるのにどれだけの時間を要したのか? 失恋、挫折、中傷、喪失・・・古い記憶を一つずつ掘り出してみる・・・ アレ?なんだか皆同じように思える。 当時、受けた傷の深さは全部違うし、落ち込み方もてんでバラバラだ。 それなのに、どうして楽しかった出来事と似たような感覚の思い出に変わってしまっているんだ? それは、『月日が快楽を連れ戻してくれた』からなのか? それとも、すでに過去の悲しみを乗り越えたのか? 傷を痛いと感じる感受性はとても大切だと思う。 そして、その貴重な経験を忘れずにいることも。 でも、忘れないでいることは、いつまでも未練がましく引きずるということでない。 終わらない悲しみというのは確かにあるのかもしれない。 しかし、それは心の中で、同じ痛みを何度も何度も呪詛のように反復してるからではないのか? そのことによって、脳は短期記憶を長期記憶に変えて、「忘れられない状態」をを引き伸ばしているからではないのか? 悲しむという状態を持続できるのであれば、同じように喜ぶという感情も繰り返し思い出したり、経験することによって維持できるという逆接的な結論が、今ここで自然に導かれたではないか。 いやいや、悲しみや喜びのみならず、どんな感情も記憶した後、その感覚を絶えずシュミレーションすることによって、いつでも精神状態を自在に操れるということである。 これが、俗にいうイメージトレーニングってやつかもしれない。 オリンピック級のアスリートが、日々かかさず修練しているという自己洗脳プログラム。 彼らが手ひどく挫折しても、何度も立ち上げれるのはこの仕組みを利用してるのかもな。 悲しみと喜びの使い分け。 今それ、アンダースタンド。 だとしたら。やはり、平常は悲しいより楽しい気分でいたい。 誰だってそうだ。 希望も夢も未来も、自分にとって心から喜びを感じるものだと認識すれば、そこに不安や迷いのスペックは必要とされない。 たとえ、この先に幾多の悲しみが待ち構えていようとも、さしあたって大したことではない。 現にちゃんと今ここに、大きな翼を広げた時間を越えて数々の悲しみを克服した自分がいるじゃないか。 これこそが、揺るぎない真の証明。 胸に手を当てて、目を閉じれば浮かび上がる記憶の連鎖。 そこには色んな自分が存在して、そこらかしこでピカピカ点滅ししながら、思い出をデコレートしてくれる。 笑ってたり、泣いていたり。 まぶしいほど、今でも光を失わない。 どんなに無様な生き方をしていたって、一生懸命にあがいていた姿は誰より自分が一番知っている。 ならば、もう十分立派だったと認めてあげようじゃないか。 様々な深い悲しみに身を置いた過去=「あの頃」たち。 いくつもの「あの頃」の自分に今のような生き方はできないし、逆に今の自分が当時のままでいられるわけがない。 それを一言「変わってしまった」と表現し、懐かしむのか嘆くのかは本人次第だが、私はむしろ変われた自分を誇らしいと思う。 そして、これからも変わっていく自分に毎日出会っていくのが楽しみでもある。 同じ場所にはもう戻れないけれど、その代わり、新しい発見や感覚が増えるのだ。 それが、希望というものだろう。 どんな悲しみも解き放つ、唯一で最強の手段は「希望」だ。 Trackback List
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