過去から今日、今日から未来へ先人が残した言葉を贈ろう。 異なる文化と歴史の中で人類を繋ぎ続けた言霊のリース。 幾多の時代を超えて、ひとつずつ解き放つ。
 
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コトダマピース 15詩*『地球の悲しみを背負う者たち』
2007-12-28 Fri 00:57
『地球の悲しみを背負う者たち』

その時ふと単純なことに気づいたんだ。
結局人がきれいになるということはさ、自分の汚れをどこかに捨てているということなんだなって。
どこかに押しつけてる、汚れをね。
その汚れっていうのはずっと消えないわけね、どこかに行ってんだよ。

でね、人と人の関係の中にもそれがあると思うんだ。
それは貧富の格差にも言えることなんだけど、この世界には身ぎれいな人間がいる一方、
苦しみだとか汚れみたいなものを、引き受けている人間がいるんだね。
例えば、インドとかアフリカの村にいくと、
飢えた子がたくさんいてハエがたかるくらい本当に汚れているんだけどさ、
それは地球の豊かさを享受してる身ぎれいな人間の汚れとか苦しみとをその子たちが引き受けてるっていうのかな、
なんかその、そういう風に俺には見えるんだな。
それは俺が勝手に作った理屈かもしれない。
だけど理由をつけてやらんと浮かばれないだろ。
単なる犬死でただ七転八倒して死にました、
「あぁ、神様なんていない」っていうような、そういうとこで終わらせるというのは、
やっぱり亡くなった人もかわいそうだし、浮かばれない。
こちらの心もおさまらない。どこかで折り合いをつけてあげる。
それが仮に理屈であろうと、必要なことなんだね。

                                  【 藤原 新也 】


 「生命を奪うこと」~三部作~
*第一部*
 
 もうすぐ2007年が終わろうとしている。
今年は、格差社会、年金問題、高齢少子化、偽装問題などという言葉が、世間やメディアを賑わせたが、
個人的に気になったのは、例年にも増して、不可解かつ不快な殺人事件、特に「親殺し」がすごく多くなったな、と思う。
未成年者のみならず、高齢者の事件も多発している現状。
年を追うごとに、「人を殺す」形態や動機が、どんどん歪んでいくように感じる。
そして、殺人を犯した状況下の心理状態も非常に掴みづらい。
犯罪心理学に当てはまっているような、いないような、専門家の指摘も曖昧でイマイチよく解らない。
恐らく、最近の事情が複雑過ぎて、まだきちんと研究できてないのかもしれない。
実は「親殺し」というのは、近年の日本人独特の現象なのだそう。
現代の日本人に一体、何が起こっているのだろう?

この間、TVで「手紙」という邦画を見た。
殺人を犯した加害者は、人を殺めたという罪をつぐなうだけでは許されない。
あとに残された被害者側の遺族はもちろんのこと、
加害者側の親族をも苦しめるのだという確たる事実。
こんな時代だからこそ、あえて今放送したのだろうか?と思わず、制作者側の意図を推察してしまった。

「人殺し」という心理について、
猟奇殺人や精神病質的な犯罪者というある種の特異な視点からではなく、
戦場における一般人の感覚から分析したアメリカ人の軍事資料によると、
なんと第一次、第二次世界大戦中で健全な精神の兵士達の8割が、人を殺す行為を避けていたという驚愕な事実が浮き彫りになったそうだ。
敵との遭遇戦に際して、火戦に並ぶ兵士100人中、平均して約15~20人しか「自分の武器を持っていなかった」のである。
しかも、戦闘状態が一日中続こうが、三日、一週間と長引こうが、つねに一定だったらしい。
なら、最前線で銃持って結局、何してたのよ?というと、
武器を持たずに仲間の救護をしたり、弾倉の補充をしたり、
あらゆる理由で殺人に手を染めることを避けまくり、それでも終いには逃げ切れなくなると、
銃を持ちつつ空に向かって空打ち、もしくは敵の焦点を避け、あえて頭上を狙ったりと
なんとか敵を「殺さないように」工夫をしていたというのだ。

それでは、全体の20%は?というと、これがいわゆる生まれもっての異常な攻撃的気質を兼ね備えた精神病質者である。
そういう人間は特殊コマンド部隊の精鋭に多い。
国家命令のもと、犯罪に問われず、自らを正当化して殺人を実行し、
そこから得る屈折した快楽を、思う存分満たすことができるタイプの人間達。
しかし、こうした集団によって、世界大戦の勝敗が決定されたという皮肉な結果が生じた。

このことから導かれたのは、つまり、普通の人間は本来、人間を殺すことにすさまじい程の抵抗感を持っているということである。
故に、ベトナム戦争では、この結果をもとに、一般兵士たちに様々な軍事訓練を施し、
先の大戦よりずっと的中率を上げたそうだが。
それでもベトナム戦争で人を殺してしまった帰還兵達の大半が、
特殊訓練を受けたにも関わらず、アメリカ本国に帰った後に、
かの有名なPTSD(心的外傷後ストレス障害)などの病に悩まされることになった。
今でも、勇敢な大尉クラスの人間ですら、人を殺めた罪にさいなまれ続けているという。

まともな感覚の持ち主が、人を殺すために必要な条件は相手の人間を「物」として捉えることが一番効果的であるようだ。
そうなるための方法は、私達には全くもって必要のないものであると判断し、あえてここでは割愛する。

冒頭の現代における殺人犯罪から、何故、こうした下りになったかというと、
時代を超越して、人間の本能的には同族を殺めるという禁忌行為に対する罪の意識が
異人種間に共通して根深く存在するということを伝えたかったからだ。

他人を殺すことは罪、そして自分自身を傷つけ、殺めるのもやはり罪に違いない。
人間は生まれながら罪を背負って生まれるなどという性悪説もあるけれど、
所詮は他人の物差しで測られた扇動的な理論。
どんなに偉い人間が言ったとしても。
不意に死にたいと思う気持ちは、大概の人間なら一度は経験することなのかもしれない。
しかし、そう考えた人は皆、何かあきらめのつかない想いがあって、この世に引き止められたのだ。
そして、今日も生きている。
極めて幼稚かつエゴイスティックで、大体が衝動的な犯罪と理不尽な自殺者が増える一方の日本社会で、生き抜こうとしている私達に託されている使命とは一体、何なのか?

あなたが必死に生きていくことを、誰も望んでないなんて、
自分で決めつける前に、もっと見渡すべき世界があるんじゃないかな?
望まれて生まれてきても、自分の誕生を祝ってくれた親兄弟を殺され、
一部の政治犯やテロリストに人生を翻弄された挙句、
犬畜生のように扱われて、短命を余儀なくされる子供達が世界の至る所に存在する。

何の罪もない彼らのために、私達ができること。
それは、「自分」という人生を生命が続く限り、精一杯謳歌することだ。
そうすることでしか、彼らに示せる命の証明は、ない。

この世界に生じる醜さも美しさも
目を開いて、真っ直ぐ見つめて、心と身体でひしと感じる。
怒りと悲しみに襲われても、人を殺める勇気などない。
否、そんな虚勢を張った偽りの勇気はいらない。

湧き上がる憎悪は、その対極の愛情に費やせ。
その憎しみのエネルギー、一度リサイクルしてみようよ。
そしたら、全く違う形の有機物になって、
あなた自身を救う手段に変わるから。

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コトダマピース 14詩*『脳と心』
2007-12-15 Sat 01:39
『脳と心』 

  この卵型の骨の器にしまってあるものは何?
  傷つきやすく狂いやすいひとつの機械?
  私たちはおそるおそる分解する 
  私たちは不器用に修理する
  どこにも保証書はない
  その美しいほほえみの奥にあるものは何?
  見えるものと見えないものが絡み合う魂の迷路?
  私たちはおずおずと踏み込む
  私たちは新しい道標を立てようとする
  誰も地図はもっていない 

  しかもなお私たちが冒険をやめないのは何故?
  際限のない自問自答に我を忘れるのは?
  謎をかけるのは私たち自身の脳
  謎に答えようとするのも私たち自身の脳
  どこまでも問い続け・・・いつまでも答えはない

                                【 谷川俊太郎 】


「あなたは、どんな人ですか?」
そう尋ねられたら、一体なんと答えるだろう?

私なら、確実にこう答える。
「根っからの矛盾屋」
この言葉に、一点の迷いもなく、嘘偽りもない。
ましてや、そのように開き直って宣言することに、逆説的な矛盾すらない。

つまりは[あまのじゃく]なくせに、ここで正直に認めてどうする?
だけど、矛盾って、いくつか重なってしまえば、意外と肯定に結びついてしまうものなのだな、これが。


 あらゆる情報が新旧問わず忙しく飛び交う都会では、若いサラリーマン層に人気の、有名なフリーペーパーがある。
もともと25歳前後の男性サラリーマンをターゲットにしていたはずが、あれよあれよという間に世代や性別を越えた読者を取り込み、気づけば爆発的な大ヒット商品となった。
これは、大手出版社のRから定期的に発行されていて、大抵、地下鉄やコンビニなどの空き棚に、これでもか!という程、ごっそりと積まれている。
しかしながら、小1時間もすると、きれいさっぱりなくなってしまう、競争率の高い代物。
特に、朝の早いラッシュ時なんかは。
堅苦しい社会に飲み込まれつつ、型にハマらないことをポリシーとする象徴のようなロン毛にスーツ姿の会社人達が、電車の中などでバイブルのように手にしている。
この一冊を読むことで、時代の流行を手短に読み取ることができるのだ。

その編集部が、この雑誌を立ち上げる際に、独自のアンケート調査をしたという。
最初は、ネットで約1万人に意見を聞いた。
「普段から新聞を読んでいますか?TVを見ていますか?」
答えは8割が「NO」だったらしい。
それで、今度は直接200人に面と向かって会い、同じように話を聞いてみた。
すると、大半が「カバンの中には日経新聞が入ってます。TVはあんまり見ないけど、たまに情熱大陸とかプロジェクトXは見る」
それって、新聞読んでんじゃん!
TVもしっかり見てんじゃん!
という、驚きべき根本的な矛盾が炸裂したという。
それゆえに、何故こんな不可解な矛盾が生じるのだろう?と当初は随分、頭を悩ませたそうだ。

そこで、一つの結論として。
結局、実際のところ、皆世間の流行に無関心なふりをして、本当はすごく知りたがっているんじゃないの?

 これはごく個人的な考察だが、最近の日本人は(自分も含め)随分と「あまのじゃく」な人が増えたのかな、と思う。
「あまのじゃく」な性質については、心理学の分野でもフロイトを筆頭に、余すところ無く研究し尽くされていて、専門用語として「反動形式」といわれている。
よく見かけるのは、小学生の男の子なんかが、気に入った女の子に対して、本当は大好きなのにわざと冷たい態度を取ったり、いじめてしまうという屈折した愛情表現など。
つまり、「反動形式」とは、簡略化すると、自我(心)の中に許し難い衝動・情動とその派生物が生じてくるとき、その正反対の意識・態度が生起する事によって生の衝動や情動と距離を取るような防衛機制の一種なんだそう。
いわゆる、自分を守る手段。

自分を守るという行為が必要になる状態は、得てして外部に己をむざむざと侵食しようとする「敵」が存在するからだということになる。

ということは。
現代に生きる日本人はおのおの、人知れず何かしら戦っているんだな~、というところに帰結せざるをえない。

すべからく人為的に仕掛けて、あくまでも物的な戦争が無くても、人間は生来何かと戦わずにはいられない生物なのだろうか?
誰かを傷つけ、何かを壊して、果ては自分さえも傷を負う。
これではまるで、近代の人類が目指すべき真の平和とは程遠くなる一方だ。

そして、冒頭に述べたように、「あまのじゃく」の代表のような私。
自動販売機で、缶コーヒーを買おうとして、何故か隣りの緑茶のボタンを押してしまう。
缶コーヒー一つ買うにも、無駄な防御システムが作動する。
格闘する場所がいたってお粗末。
それでも、バカみたいに己の意思を裏切る。

言ってみれば、自分をね、裏切ることは簡単なのだよ。
でもね、それは明らかに反則行為なわけで。
認められたい、愛されたい、注目して、受け止めて欲しい。
そんな正直な心の叫びを、知っててわざと無視している。

ひねくれるって、自分をないがしろにすることじゃない。
もっと自分で想定できないくらい、自身を、大事な人達を、この世界を、心がねじれるくらい認めて、バカ正直に愛することなんじゃないかなって思ったりする。
醜いことも、罵倒されることも、固く信じて罵詈雑言を跳ね返す力。
そういうことをストレートにできてしまうのが、実は異端とか変人とかっていうひねくれ者の強みであるのかも。

こんな不安定な世の中だから、いちいち見るもの聞くもの全て疑う事ばかりで。
けれども、そんな時代に生きていく自分をまずは誰よりも自分が理解してあげなきゃ、先に進めない気がする。
ん?この先って?
それは、あなたが心から描く、決して譲れない大きな夢。
そのすべてが実現される、願ってもみない「あまのじゃく」な未来ってこと。


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コトダマピース 13詩*『13階は月光 』
2007-12-05 Wed 01:02
『13階は月光 』


月の光の照る辻(つじ)に
ピエロ ピエロ ピエロさびしく立ちにけり

ピエロの姿(すがた)白ければ
月の光に濡れにけり

あたりしみじみ見まわせど
コロンビイヌ コロンビイヌ コロンビイヌ コロンビイヌ コロンビイヌの影もなし

あまりに事のかなしさに
ピエロ ピエロ ピエロは涙ながしけり 涙ながしけり

                        【 堀口大學~月光とピエロ~ 】
 

     
 「13」という数字が好きだ。
多分、この日が自分の誕生日だという、ごく単純なものかもしれない。

しかし、この数字は随分と世界中で忌み嫌われる数字である。
ことに俗世、特にキリスト教圏の国では最も不吉とされ、「13恐怖症」といった心理学的な病気すら存在する。
何故、クリスチャンは「13」が駄目なのか?
ここに、思い当たる限りの理由を挙げてみた。


① アダムとイブ
ヘビに誘惑されたイブがアダムに知恵の実を食べさせたのも13日の金曜日

② ノアの箱舟
ノアの箱舟の大洪水も13日の金曜日に起こったとされている

③ アベルがカインに殺害された日、すなわち”人類最初の殺人”の日もまた、13日の金曜日であったと言われているのである

④ バベルの塔
バベルの塔をつくろうとして、神の怒りを買い、言葉が通じなくなってしまったのも13日の金曜日

⑤ イエス・キリストと12人の弟子達が最後の晩餐を囲んだ時の、テーブルについた人数が13人であった

⑥ イエスを裏切ったイスカリオテのユダは「13人目」となるため

⑦ イエスの処刑の日が13日の金曜日であった

⑧ タロットでは死神をあらわす。

⑨ 死刑台の階段は13段あり、「十三階段」と呼ばれている。

⑩ イスラエル神殿をエジプトが破壊されたのも、13日金曜日

⑪ 魔女とフリッガ信仰
キリスト教が広がっていくにつれ、古来の神やその信仰者たちは異端者であり、魔女であるとして森や山の中に追いやった。
しかし魔女として追放された巫女(みこ)たちは、フリッガ信仰の再興を願い、毎週金曜日、つまりフリッガの日に11人が集まり、そこに女神フリッガと悪魔を加えた13人が、キリスト教徒にどのように災いをもたらそうかと相談するようになった。そのため北欧では、金曜日は「魔女の日」と言い伝えられている。

⑪ ノルウェーの神話において、ヴァルハラで12人の神が晩餐をしている最中に「招かれざる13番目の賓客」としていたずら好きのロキが現れるという逸話がある。そこでロキは、ホデル(暗闇を司る盲目の神)をそそのかして、バルドル(美と悦びの神)をヤドリギの矢で撃たせるのだ。
「そしてバルドルは死に、世界は暗闇、そして悲嘆の声に包まれる。」
それが不幸なる13の起源となる。

ここまでは西洋の古いお話。
だが、ここで視点を変えて、以下にあげる中国の例では逆に吉数とされているし、古代マヤ文明では最高神に与えられた数字である。
 特に、マヤ暦は別名「神聖暦ツォルキン」と呼ばれ、実際に「13の月の暦」というものが存在するのだ。
 
⑫ マヤの人々は、この宇宙は13層の天空からできていると考えていた。そのもっとも上の13層の天空にいて宇宙全体を支配しているのが、唯一にして最高の神『フナブ・クー』。その姿は人には見えず、あまりに崇高な神なので、形もないとされてる。
これは「全能の力」を意味している。全能の力と幸運を人に与える最高の守護数。

⑬ 中国の一部地域などにおいて13を吉数とする地域も存在する。広東語では「十三」の発音が「實生(実るという意)」に似ていることが由来となっている。


そして、更に現在においては、欧米のマンションやホテルには13階というフロアが見当たらない。
12階の次は、いきなり14階に飛ぶ。13階をつくってしまうと買い手がつかなくなるからだ。
また、14人集まるはずのパーティーに1人が欠席して13になると、あわてて別の人を招待することがある。また出席者が13人になるようなパーティーの計画はしないという。結婚式場では、「13日の金曜日」には予約が入ることはほとんどない。

以上が、太古から世界の至る所に受け継がれる、由々しき「13」の由来である。

 さて、改めて「13」について。
数学的に言えば、13は不特定な素数である。
つまり、割り切れない、不安定な数字。
12に対し、12に付す数でありながら割り切れない素数である13は、その調和性を乱すものとして「悪い数」だと考えられたといわれている。太陰太陽暦では数年に1度1年が13か月(閏月)になり、13は普段とは異なる状態を表す数として認識されることも少なくない。
実際、この不協和音が人々を不安に駆り立たせる理由の一つなのかもしれない。
でも、この一見バランスが良いような悪いような、解釈によっては善にも悪にも属する、はっきり言ってどっちつかずの不安定さを、私はこの上もなく愛する。
 まるで、人間の心のようじゃないか。
いつまで立っても、きちんと調和の取れない理性と感情のシーソーゲーム。

だけど、それでいい。人間は。
たとえ、この地球上で最も愚かな生物だと同族間で罵り合おうが、けなし合おうが、互いに自由に生きようとする意志は誰にも剥奪できはしない。
だからといって、傍若無人に生きろと勧めているわけじゃあない。
悪い心があったとしても、そこから不意に善に転ずることもあり、またその逆のしかり。
要は、不安定だからこそ、心という暴れ馬を管理する本人の意識次第で、何処にでも行けるし、何にでも変われるということである。
それこそが生きる醍醐味。
全知全能の神すら驚く、未知数で無尽のエナジーなのである。

きっとあなたにも宿る、無限大の飽くなき衝動。
限界まで上り切った階段を超えた向こう側、13階目の月の光のもとで花開く、美しき魂の躍動。

人間は、己の限界を突破した時に初めて、真の存在価値を自身で認めるもの。
「13」とはその力を表す象徴だと、私は信じてやまない。

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コトダマピース 12詩*『友情の極意』
2007-12-01 Sat 01:33
『友情の極意』


◆ 往く者は追わず、来る者は拒まず。
                             【 孟子 】


◆ 友人に不信をいだくことは、友人にあざむかれるよりもっと恥ずべきことだ。
                             【 ラ・ロシュフコー 】

◆ 人々は悲しみを分かち合ってくれる友達さえいれば、悲しみを和らげられる。
                             【 シェークスピア 】

◆ 友人の果たすべき役割は、間違っているときにも味方すること。
正しいときにはだれだって味方になってくれる。

                             【 マーク・トウェーン 】

◆ 友人とは、あなたについてすべてのことを知っていて、それにもかかわらずあなたを好んでいる人のことである。

                        【 エルバード・ハーバード  】

◆ 立派な人間の友情は、温かいからといって花を増やすこともなければ、寒いからといって葉を落とすこともない。どんな時でも衰えず、順境と逆境を経験して、友情はいよいよ堅固なものになっていく。

                             【 諸葛亮孔明  】

◆ 友は喜びを倍にし、悲しみを半分にする
                             【 キケロ 】



 この間、見たDVDはハリー・ポッターの最新版。
幼げな子供からたくましい少年へと成長を遂げるハリーが終始思い悩むのは、最大の敵であるヴォルデモードに一人立ち向かおうとする中で、思春期にありがちな淡い恋愛や、家族以上に自分を知る友情の問題であった。
闇に潜むヴォルデモードと何かしら共通点があることを余儀なくされつつ、自分との決定的な違いは何かと聞かれ、ハリーが最後に悟ったかのように吐いた短い言葉は、
「Someone fightig for(守るべき人がいること)」(だったと思う)。

それで私は?あなたは?
What are you fighting for ?(何のために戦っているの?)


 自分が生きてきた、これまでのほんのわずかな人生を振り返る時、ふと思いを巡らすことがある。
それは、この世で確かな産声を上げ、生を受けてから今までに、一体どれだけの人間と出会ってきたのだろう?という確認しようのない無謀な問い。
そして、そこで他者と交えた生命の紡ぎ糸。
あちこちで行き交う魂の大きなタペストリーの中、私は一瞬でも必要とされたのか?

それよりまずは、誰かに必要とされたい、この不可思議な衝動はどこからやってくるのか?
性懲りも無く、絶えずいぶかしむ私を、この不埒(ふらち)な世界に留まらせるのは、いつの時も訪れる他者との交わり。
 否、「友情」と名づけられた、ある種あいまいな関係性。
それでも、ひとたび触れてしまえば、またとはない強く激しく心を揺らすもの。

恐らく、人一人の運命を揺るがす最強の余震。

私はいつでも、これを強く感じてしまう。
ありふれた日常で、あるいは予期せぬ人生の転機で。

 幸いなことに、このブログは多くの友人達が主体となって目にしてくれるからこそ、確固として成り立つものである。
そもそもブログを立ち上げた意図は、だらしない私を見放さず、いつも支えてくれている友人のためのささやかな罪滅ぼしと言っても過言ではないかもしれない。

これはキレイ事か?もしくは、世迷言?

 いいや、そうとは言い切れない。
何かしら不可解なパワーがおのずと各方面から寄せられ、本来面倒くさがり屋な私を無性に駆り立てている。
たとえどんなに多忙な身にあっても、ついついパソコンの画面に向かわせる原動力になっているのは否めない事実。

一言で言い表せば、すなわち、私はなんだかんだ言って、恵まれた幸せ者なのだと思う。

ここで『幸せ』な状態を論ずるよりも、まずは自らを闇雲に奮い立たせる『友情』について述べておきたい。

自分が今まで出逢ってきた人々は数知れない。
その中で、実に多くの助け舟を得たことは、まだまだ短い人生の中において、思いのほか大切な要素である。

 私がこの世界で生き抜こうとしていること。
それは、いつも人生という予想もつかない旅路(アトラクション)の途中で、親しい友人の顔を思い浮かべては、脆い自分がひどく情けなく感じるから。

全てのわずらわしい物事から、つい逃げ出したい気持ちに駆られ、耐え切れない苦しみを理由に、ぶち当たった障害を避けようと弱気になってリタイアしたいと願っても、安々と許されないような気がして。

大げさな言葉は無くても、ただその人たちを想うだけでグッと心のブレーキがかかる。
そんな人々に、自分は運良く関わりを許されてきた。

私が歩んできた未完成の人生図をおもむろに広げた時、ざらついた図面を埋め尽くす幾多の人型の轍(わだち)。

ねぇ、いくら馬鹿げた行為に身をやつしても、変わらず見守ってくれる?
私が向かう行き先に、途方も無い茨がたくさん張り詰めていても、止めないでいてくれるかな?
難しい理論(ロジック)を取っ払って、その奥から押さえ切れない感情が溢れ、行く手を専攻しても、何も変わらず友達のままいられるものなのかな?

 両の目を見開いて、飽きる程、探しても探しても、結局、探し切れない。
人間が抱く欲望は尽きなくて、自分の気持ちを本能のまま忠実になぞれば、そんな理不尽な想いばかりが溢れて。

まったくの嘘じゃないんだよ。
ただ、脈略の無いことも、時に包み隠さず伝えたいと欲している。

かといって、取り返しがつかないほど、みすぼらしく壊れたわけじゃない。
利口に生きようとすることが、どんなにわずらわしいかを訴えたかっただけ。

 親しく想うあなたにね、全てを委ねたいと思ったの。
時には、馬鹿も承知で、すました羽目も外したい。
そして、そんな私がいることも少なからず知って欲しい。
そう願って、甘えた私はまるで子供のように、次から次へと大人気ない我が儘を繰り返す。

私は多くのものを、あなたに望んでしまっているかもね。
だけど、無防備に期待してしまうんだ。

だって、あなたはすごく輝いているんですもの。
どんな状況に置かれても、沈んで閉じてゆく私を見ていてくれる。
たとえ、どれだけ苦しくても、ほのかな優しさで包んでくれるから。

いつか、その恩返しは必ずするね。
あなたがいてくれたことで、私がこの浮世で揺らぐ心を見失わず、立っていられることを。


永遠に果てることのない、純粋無垢な約束。
叶えたい夢が冷めないように。
祈りながら、突き進む有限の時間(とき)の包囲網。
限られているから、愛したい。
出逢って、触れて、ひしと感じる。
二つとない、あなたの確かな鼓動。
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コトダマピース 11詩*『縁ありき道標(みちしるべ)』
2007-11-24 Sat 16:06
『縁ありき道標(みちしるべ)』

 
◆ 小才は、縁に出合って縁に気づかず。
  中才は、縁に気づいて縁を生かさず。
  大才は、袖すり合った縁をも生かす。

                             【 柳生家の家訓 】

◆ 縁ある人 万里の道を越えて 引き合うもの 
縁なき人 顔をあわせるすべもなく すれ違う

                             【 中島みゆき 】


何気ない日常。
私達はしばしば、そこにあふれているものを見落としたり、あるいは気づかないふりをする。

特に「縁」というものは。
土地に人に言葉に物に、目に見えずとももれなく宿り、接触した我々との相互間で発生する引力のようなもの。
「縁」という名の言葉の中に、この世で生じる事象の全てに、自分との関わりを見出して感謝する。
他国には存在しない言葉。
文化が異なる外国人に説明するには、一言で表現しがたい感覚を持つ、不思議な日本独特の文化である。

この「縁」、じつは神様にもあると知ったのは、東京に来る前、まだ京都にいた頃だ。

その頃、アルバイトしていた店に神棚が奉ってあった。
誰を奉っているのかと、店主に尋ねると
「スサノオの命(ミコト)」だという。
スサノオといえば、京都の八坂神社の祭神である。
京都では通称、牛頭(ごず)天皇とも呼ばれる、非常に強力な神様だ。
「あんたの産土(うぶすな)神は誰や?」
突然、そう訊かれて、「え?産土て何ですか?」と間抜けな返答をしたのを今でもよく覚えている。
「産土いうのはな、あんたの生まれ故郷を守っとる神さんや。小さい頃にお宮参りしたやろ?あれは、一種の神様との契約でな、そこの神さんがあんたの一生を担当してくれる守護神なんやで。」

つまり、産土(うぶすな)とは、神道の全国八百万(やおろず)いる神様が、最初にお宮参りをした際に、この世に生まれた子の、死ぬまでの守護神となるそうである。
しかも、その子供が大人になって、地元を離れても、その行く先々でも、きちんとそばにいて守ってくれるらしい。
 それが、一番わかりやすい形となって現れるのが神社なのだそうだ。
守護神は祭主かもしれないし、その横に別格で祭られている神様も含まれる。
そもそも、別格で奉られている神様達は、その神社の祭主と兄弟や親子関係やらで「縁」のある方々なので、おのずと系統が似てくる。
 要は、神様にもグループ分けが存在するということで。
例えば、全国でよく見かける稲荷社とか八幡社などは、元を正せば、伏見稲荷大社なり、宇佐八幡宮しかり。神様の世界にも大きなネットワークがある、というわけだ。
 だから、たとえ守護神自らが守れなくても(本人の近くに守護神の神社がなかったり、あるいは神事にお忙しかったりという理由で)、その守護神に縁のある神様が代わりを務める場合もあるという。
そういう過程の中、日本人は生まれながらにして、多くの神様に引き合わされる。
とにかく、お宮参りとは実は、そういう神様との縁を契る儀式なのだと初めて知った。

「ほんで、あんた、どこ参った?神社の名前いうてみ。それで大体神さんの系列がわかるもんや」
「はぁ・・・確か、鹿島神社やったと思います」
「ほぉ~、鹿島さんかいな。そりゃ、えらい神さんやけど、その神さんがあんたの守護神とは限らんで。今住んでる、近所の神社回ってみ。あんたのホンマの守護神がわかるやろ。あんたに縁のある神様は必ず近所の神社にいらっしゃる。そういうふうに、人間知らん間に導かれとるもんなんやで。それより、一回実家帰って、祭神確かめた方がええな。」

鹿島神社?神様?・・・何のこってすかい?

 そう訝しげに思いつつ、近所の神社を確認したら、春日神社があった。
そこの祭神はタケミカヅチノミコトとアマノコヤネノミコトだった。
タケミカヅチは、茨城県の鹿島神社から分霊されたと書かれてある。
確かタケミカヅチは、実家の鹿島神社の祭神だった気がする。
それで「近くに春日神社がありました。やっぱり、タケミカヅチなんでしょうか?」
と報告したら、
「う~ん、そう短絡的に考えたらアカンな。確かに橋渡ししてくれてるんやろうけど、ホンマにその神さんが、あんたにずっとついて回ってくれとるんかな?
それにな、産土神っちゅうもんは何も神社に名前がある神様だけやないで。
神社いうもんは、人間が後付けして建てたりするもんやからな。もともとその場所の、たとえば神木に宿っとる名のない神さんが、守護霊になったりしはるんや。どっちにしろ、人間には皆、守護霊さんがおる。ありがたいこっちゃで。まぁ~、この先、だんだんわかってくるやろ。あんたの行くとこ行くとこで気ぃつけてみなはれ」
店主はそれ以上、語ることはなかった。
だからこそ、すごく気になった。
気になって気になって、わざわざ実家の鹿島神社まで調べに帰った。
久方ぶりに訪れた鹿島神社で、早速、祭神を確かめる。
タケミカヅチ、スサノオ、アマテラス大神、応神天皇。
う~む・・・さっぱり、わからん。

そう頭を抱えて嘆きつつも、一度乗りかかった船である。
ここでうやむやにするのも惜しい気がしてならない。
それで手当たり次第、古事記や日本書紀やら読みまくり、神さまの系譜を頭に叩き込んで、はては伝説の域にあるフトマニやホツマ伝まで行き着いた。
しかし、収穫があるような無いような・・・
ゆめゆめ行き過ぎて、すっかり歴史の深みにはまってしまい、どうにもこうにも迷ってしまった。
イカンイカン・・・シンプルに考えねば。いったん最初の場所まで戻ろう。

自分がこれまで足を運んだ神社をおさらいしてみる。
確かに色んな神社は行ってみたけれど。
人生の節目節目で、気になった神社は・・・
鹿島神社→春日神社。
なんかものすごく抜けてる気がするな。
あ、そうだ。
京都に来たとき、一番最初に八坂神社に参ったんだっけ?
確か受験前で、東京の大学に受かりますようにと頼んだら、そのまま京都に引きづられて・・・
スサノオといえば、八坂やら出雲といった土地と根深いという印象が強いが、実は元来、熊野の地で生まれ育った神である。
そういう意味では、紀州の地を故郷に持つ私とも縁が深いとも言える。
しかし。。。

 その後、春日神社のあった場所から、同じ市内の別の区に引っ越した。
この頃から、妙に神社の存在が気になり出して、目に留まる神社は皆調べてみることにしていた。
新しく引っ越した家のすぐ目の前に小さな神社があった。
そこにはスサノオがいた。
また、スサノオ。なんかつい気づけば、何処行ってもこの方がいらっしゃるような。
そもそも、京都は八坂神社が母体になってるから、この方から逃れる術はナシなのか?
いやいや、神様は他に総じて八百万もいるのだよ。
その上、京都には色んな神様を祭る神社が五万とある。
それなのに・・・

京都は私にとって、楽しい思い出以上に、厳しい修行の場だった。
ここから逃げ出したいと思っても、いつもいつもタイミング良く(?)邪魔が入る。
一度、足を踏み入れると、二度と抜け出せない空気が漂っている。
 無論、あくまでも私にとっては、という話だが。
だから、京都と縁を結んだきっかけがスサノオとするならば、その時の私の心境としては、この上もなく迷惑な話に思えてならなかった。
八坂神社なんかで手を合わせて、拝むんじゃなかったな。
ずいぶん罰当たりな発想である。
『自ら望んで京都に来たわけじゃない』
当時、私の心を占めていた感情は、そんな浅ましいものだった。
だからこそ、スサノオは私を許してくれなかったのだろう。
「身に起こる不幸な出来事を、誰かのせいにしても、何の解決にもならない。」
それを辛抱強く教えようとしてくれていたのかもしれない。
だけど、私はわかろうとせず、また誰かのせいにしようとしていた。
『スサノオの呪い』
私は密かにそう名づけた。
恨めしい想いと行き場のない怒りを込めて。

そして、スサノオがいる神社にたびたび赴いては、こう願った。
「早くこの街から、私を解放して下さい!」

そんな性懲りも無い祈りが通じたのだろうか?
スサノオとの関係にも、ついに縁が切れるかのような出来事が起こった。
祇園祭が近くなった、夏のある日のこと。
上記とは別のバイト先で、八坂神社のお祓いを受けることになった。
お祓いといっても、京都の商工会が各店に配っている人形(ひとがた)の紙に、名前と願い事を書くといったものである。
そして、一ヶ月にも渡る祇園祭が終わる頃、八坂神社で人形を焼き、本人の代わりにお祓いをする慣わしなのだそう。
長いこと、京都に住んでいて初めて体験するものだった。

しかも、また八坂神社か。おのれ、スサノオめ。
そんな想いが、人形に自分の名前を書き込んでいるうちに、なんだか急にばかばかしくなって、笑いがこみ上げてきた。
『今まで、ずいぶん貴方を拒んできたけれど、こうして出逢いを重ねるのは縁がある証拠かな?それなら、それでいいや。だけど、私の夢を壊そうとはしないでね。
私はこれまで、たくさんの間違いを犯したのかもしれないけれど、夢を描くことに罪はない。そのことだけは、許して下さい。』
今ここで、人形を身代わりに焼くのは、己の煩悩の一部。
祓いたまえ、清めたまえ。
その時初めて、スサノオによどみない素直な気持ちを言えた気がした。

それからほどなくして、突然東京行きが決まった。


東京に出てくる直前に、改めて八坂神社を訪れた。
感謝の念を伝えるためだった。
暮れゆく夕日を背に受けて、境内におわしますスサノオと、面と向かって挨拶をする。
心は未だかつてなく、晴れ晴れとしていた。
最後におみくじを引く。
「神風の八坂の郷とけふよりは 君が千とせとはかりはじむる
(八坂の神の御かげを受けて、永代(とこしえ)に栄えゆく第一歩を今日より始めるというめでたいおさとしです。)」
よし、これで、京の都のスサノオともおさらば。
とにかく、これまでありがとう。
これからはあなたのお力の及ばぬ場所で、頑張って生きていきます。
そう誓って、京都を後にし、意気揚々と東京へ出てきたのである。

 上京してきた新居がある町で、もはや恒例となりつつある近所の神社探しをする。
さっそく見つけたのは、氷川神社であった。
これは関東最大の力を持つ、ここら一帯ではとても有名な神社だという。
さっそく、参って挨拶をする。
さて、今度はどんな神さまなのかしら?
心躍らせ、確かめるやいなや、予想もはるか唖然とした。
祭主はなんと八坂神社から分霊したスサノオだった。
これはまぎれもなく、『スサノオの呪い』、第2章??
もうここまできたら、笑うしかなかった。
ひょっとして、愛されてるのか?
さもなくば、私が無意識に慕っているのだろうか?

私はスサノオと縁を切ったのではない。
京都と、そこに住むスサノオの手を離したに過ぎなかった。
新たな土地で縁を結んだのは、またしてもスサノオだ。
まったく、どこにでもいるんだね。お互い、古い付き合いになりそうだ。
こうなったら、死ぬまでよろしく頼むよ。
親愛なるスサノオさん。


そして、現在、赤坂にある会社の近くには日枝神社がある。
穏やかな陽だまりが心地よい午後の空き時間に、ふと思い立って訪れてみた。
祭主は大山咋神(おほやまくひのかみ)。
けれど、横にあるサブ祭主を確かめてみたら・・・
やっぱり、いました。スサノオ様。
しかも、出雲からではなく、わざわざ八坂神社から分霊されているのね。
やはり、あなたが、ここへ導いてくれたのですか。
でも、もう嫌な気持ちはしませんよ。
むしろ、すごくたのもしい限りです。
どこに行っても、ちゃんと見守ってくれてるんだね。
今日も感謝の意を込めて、本当にありがとう。

このことは、多分私だけに起こる現象ではないと思う。
きっと、皆、知らない所であなただけの神様に守られているはずだ。
産土から始まって、この際確かめてみてはいかがでしょう?
偶然を超えた不思議な縁に出逢えますよ。


先急ぐ足を、時に立ち休ませ、振り返ってごらんなさい。
その背後には、過去を刻む道のりと、生まれてこの方、いかなる歩みをも共にした
守護なる神の微笑みがある。
忘れなさるな。
何時いつの世も、あなたを支える大きな力が存在することを。


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コトダマピース 10詩*『月光と海月』
2007-11-20 Tue 22:56
『月光と海月』

月光の中を泳ぎて むらがるくらげを捉えんとす
手はからだをはなれてのびゆき
しきりに遠きにさしのべらる
もぐさにまつわり
月光の水にひたりて わが身はは璃のたぐひとなりはてすか
つめたくして透きとほるのも流れてやまざるに
たましひは凍えんとし
ふかみにしづみ
溺れるるごとくなりて祈りあぐ。
かしこにここにむらがり
き青にふるえつつ
くらげは月光のなかを泳ぎつ

                           【 萩原朔太郎 】


生まれて初めて、この世で最も美しい詩だと思った。
多感な思春期真っ只中、偏った知識で物事を判別していた15歳の頃。
わずかな好奇心すら、そそられない国語の教科書に載っていた詩である。
生と死の狭間、危うげな感性をもてあそび、自分のアイデンティティを必死で探っていた陽炎のような季節。
人間はどこから来て、どこへ行くのか?
知恵熱に冒された痛いげな子供はそんなことばかり考えてたように思う。

毎夜、または白昼夢、安堵の時すら忘れ、しぶとくうなされるくらいならいっそ手短かな、ありあわせの答えを欲した私は、当時思い切って、つい大人の世界に生きる担任にSOSを出してみた。
「私は何故、この世に生まれてきたのですか?
 私は何処へ行けばいいのでしょう?」
ノートに書き綴った、密やかな想いのたけは出口を求めて揺らめいた。
「そんなことは今考えるべきではない。もっと他に考えなければいけない事は沢山ある。例えば、お前はどこの高校に進学するつもりなのか?」
まるで、答えになってないよ、先生。
私の未来なんて、所詮、計るべき軸などありません。結局、何も答えられないんでしょう?
想定外の事態に備えて、正しいマニュアルはなかったのですか?
たとえ、この世界の全てが夢で、誰かが吹聴した嘘だとしても、一見まともに思える答えさえあれば良いと思っただけなのに。

大人になるのは、やっぱり嫌だ。
こんなふうに、日々矛盾に異なり、さらさら波打つ心と心を一つにを寄せ合うことさえできないなんて。
そう、自分勝手に空しく確かめただけだった。

海がとても美しい町。私が生まれ育った故郷は。ほかにめぼしいものといえば、千里にまたぐ梅林の香り。
でも、それを深く愛した。

そして、ここにはずっといられないとも感じた。

幽玄な空の青さに目がかすんだ、あの頃は・・・
真っ直ぐ見据えた海の向こう側、水平線がはるか遠くでなびく先に、確かな私の未来があると信じた。
永遠という名の楽園が存在するならば、きっとずっとそこにある。

あの時、必死で目指そうとしたもの、今は手に入れられているのかな?


今夜、浮かんだ三日月は、空気が澄んだ夜空の端々に、鋭い光を容赦なく放っている。
お前はあてどなく、どこまでも漂うのか?

海の闇を、雲の影を、ものともせずに撥ね退けて。

月はいつも、淡き過去への回想をうながす。
せわしい大都会の片隅でふと見上げてみれば、ほのかな灯篭。
人工的な電飾よりも、強く儚く光る浮遊物。

私が生まれる前の世界も、お前は全部知っている。

同じ過ちを繰り返す中で、人間は変われたかい?
だとしたら、教えておくれよ。
真実を知りたがる、愚かな人間の行く先を。

鼻先であざ笑うお前に、小さき者の代表として、私は揺れぬ誓いを立てよう。
ここで、この地球で生き抜こうとしている報いのないあがきは、決してムダではない、と。
自らが心底切望したわけではないけれど、この世で生かされている意味に証を立てるまで、死にもの狂いで走り抜いてやる。
私という一つの人生を。

同じ強固な眼差しで、あちこちにはびこる限界に負けじと挑む友と共に。


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コトダマピース 9詩*『結婚という認識』
2007-11-10 Sat 22:34
『結婚という認識』


◆ 恋は人を盲目にするが、結婚は視力を戻してくれる。
                                    【リヒテンベルグ 】

◆ ねえ、あなた。話をしながらご飯を食べるのは楽しみなものね。
                                    【 永井荷風 】

◆ 夫婦間の会話は、外科手術のように慎重に取りかからなければなりません。
  ある種の夫婦は正直なあまり、健康な愛情にまで手術を施し、
  そのために死んでしまうようなことになるのです。
                                    【 モロア 】

◆ 結婚をしないで、なんて私は馬鹿だったんでしょう。
  これまで見たものの中で最も美しかったものは、
  腕を組んで歩く老夫婦の姿でした。
                                    【 グレタ・ガルボ 】

◆ 男と女というこうも違った、また複雑な人間の間で、互いに良く理解しあい、
  ふさわしく愛するために一生を費やして長すぎるということはない。
                                   【 コント 】

◆ 結婚するやつは馬鹿だ。しないやつは――もっと馬鹿だ。
                                    【 バーナード・ショー】

◆ 結婚したらいろいろ分かってきますよ。いままでは半分謎だったことが。
                                   【 モーツァルト 】

◆ 恋する人のために食事の支度をしている女の姿ほど、胸打つものはない。
                                   【 T・ウルフ 】

◆ 結婚する。
  まだ多少は愛したりもできる。
  そして働く。
  働いて働いて、そのあげく愛することを忘れてしまうのである。
                                  【 エジソン 】

◆ 愛する者と一緒に暮らすには一つの秘訣がいる。すなわち、相手を変えようとしないことだ。
                                        【 シャルドンヌ 】


 愛とか結婚とかについて、ノートパソコンに向かい、悶々と考えて文章を書いていると、まるでSex&Cityのキャリー・ブラッドショーのような気分になる。
憧れの存在ではあるけれど、まだまだ遠く及ばないのは自分でもよく理解している。
それでも今日は、キャリーのように果敢に論じてみたいような気持ちがあることを一寸だけでも許して欲しい。

 つい先日、某大手出版社とのコラボでプレママ&マタニティのコンテンツ企画の話が持ち上がって、無理矢理企画書を書かされる羽目になった。
 このヤロ、また余分な仕事が増えて、残業三昧じゃねーか。
大体、転職一ヶ月目の新人かつ未婚者の私に担当させるなんて、無謀にもほどがある。
だが、そんな風に愚痴ってもまったくしょうがないので、仰せられるがまま、毎日毎日飽きるほどマタニティ系の雑誌やWebを見つつ、莫大な資料を引っさげ、迅速に研究せざるを得ないのが現状だ。

 しかし、必ずしも近からずも遠からず、いつかの明日は我が身の事なので、下調べしながら勉強させられる節は多々あるものだ。
一口にマタニティといっても、世に出回る雑誌によって色合いや世代、読者の年齢層が違うし、テーマや傾向も少しずつ違うことに新鮮さを感じた。
もし今の企画が通れば、確実に担当させられる出版社は、どちらかというと初産の年齢層がちょいと高くて、全体的に少しプチセレブ感のある読者が集う・・・「たまひよ」でも「赤すぐ」でもない。というと、もうわかる人にはわかってしまうだろうが。

 とにかく、何の因果か、やはり今年は事態の急変展開がまったく読めない。
今年もあと二ヶ月、平和にやり過ごそうと思っていた矢先の寝耳に水の出来事であった。

 まったく、結婚て何だろね?

 とは言え、雑誌の写真に写る読者モデルはずいぶん幸せそうである。
一生懸命、子育てダイヤリーをつけたり、食事や健康に気をつけたり、きれいなママでいるためにおしゃれしたり、ブログで我が子を自慢してみたり。
自分の母親の世代にはありえない光景に、自然と感心や尊敬やらを覚える。
そして、一抹の希望と勇気を与えられもする。
努力家で勉強熱心な世代の母親たち。
この御時世で、家庭に収まらず、しっかり社会に出て働きながら本当に頑張っていると思う。
平均して一人あたり、モロモロに抱えるものは昔に比べて、ひどく多くなったにも関わらず、だ。
到底、真似できないな~と思いながら、そうして生きていくことを余儀なくさせられる、複雑な世の動向。
とある、評論家がおっしゃていた。
「現代に生きる女性は、もはや崩れ去った我が国の父権主義の肩代わりをしている、実にたくましい存在である」と。
今や、この国を支えているのはまぎれもなく、女性の底知れぬパワーだ。
と言い切ってしまうと、一介のフェミニストみたいに思われるかもしれないが、ここでの表現は一切そういう区切りを超越した、一人の人間としての感嘆である。
事実、女性は元気だ。いや、空元気なのかもしれない。
 それでも、ひたすら前向きに生き抜こうとする姿勢はもはや痛々しさを通り越して、実に美しい。
何かにつけて、「凛」という言葉が流行るのも無理はない。
全てにおいて、柔軟に生きる女性の強さに救われている部分はすごく多いと思うのだよ。
手放したくない家族のために、あるいは子供のために、もしくは自分のために生きているの?

 ママとして生きる自分に確固たる存在証明を、揺るぎないアイデンティティーを必死で模索する。
背負ったもの全部に責任は持てなくても、なるべく取りこぼさず、ありったけのエナジーを燃やして。

 「ママになっても、ずっと等身大の”私”でいたい、あなたへ」
不意に思いついた言葉。
そのままキャッチコピーとして、即採用されてしまった。

 ああ、なんだか、自分で自分の首を絞めている予感。
予期せぬ仕事が増える、増える、増え・・・

 でも、これも世のため、人のため。
私だって、人様に生かされてるんですもの。

 そして、また一つ、大きな目標ができた。
こんなにも頑張っている人たちが大勢いる。
自分はきっと、その人達のために何か実になるものを貢献していかなければならないのだろう。

 明確な決意と、半ば一人よがりな使命感。

だけど、そうやって誰かたった一人の要求のためにでも、懸命に応えて生きていければ幸せだな。
何もしないで後悔するより、手を取り合いたい誰かの心の扉をノックする。
戸惑いながらも、玄関の鍵を開けたあなたが笑顔で喜んでくれれば、それで。

 決して拒まないで。
たとえ、この矛盾に満ちた世界があなたを奈落の闇へと突き落とそうとしても。
私が、そのか細い手を握って離さない。
儚いけれど、縁あって生れ落ちた生命を太陽の光のもとに、力強くかざすまで。

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コトダマピース 8詩*『人間の運命よ』
2007-11-04 Sun 07:01
『人間の運命よ』

◆人間の運命よ。
  お前はなんと風に似ていることか。

                        【 ゲーテ 】

◆運命がカードを混ぜ、われわれが勝負する。

                        【 ショーペンハウエル 】

◆運命のなかに偶然はない。
  人間はある運命に出会う以前に、自分がそれを作っているのだ。

                        【 ウィルソン 】

◆運命をあざ笑うものが幸運を手に入れるだろう。

                        【 ベンジャミン・ディストレイ 】

◆運命は花崗岩より堅固だが、人間の良心は運命より堅固である。

                        【 ユーゴー 】


◆人は、運命を避けようとしてとった道で、しばしば運命にであう。

                        【 ラ・フォンテーヌ  】

◆人生とは、運命がなみなみと注がれている盃である。

                        【 ブラックロック 】


前回のブログを書き終えて、内容を見直している時、不意にモヤモヤと頭にもたげたことがあった。
えらそうに、人間に科せられた運命を語ってみたものの・・・
そもそも誰が名ずけたか「運命」というものは一体なんぞや?
ここにきて純粋にぶち当たって、そして真剣に考えた。

加えて、今日古い友人のブログを閲覧して、ますます思索を練る羽目に陥った。

恐らく、前回の私のブログに対する答えなのだろう。
自らの結婚について、静かに語っていた。
最初は決して終わることのない永遠の楽園に二人寄り添い生きていく誓いを立て、この世で固く縁を結び、喜びを分かち合った。しかし今や日を増すごとに色褪せゆく幸福のほころびを互いに認め、とうに朽ちた夢の淵からも完全に目覚めてしまった。
そして、今はただ夫婦となった二人の愛が産み落とした、何物にも変えがたい奇跡の結晶でもある子供のためを想い、なんとなく習慣としての生活を共にする。
もはや、二人の間に恋愛という文字は存在しないのだ、と。

なにやら、どこかで繰り返し聞いてきたようなお話。
現代社会の闇をあぶりだしたら、どこの家庭にも浮かび上がってきた深刻な地獄絵図。
今世紀最大の課題でもある”魂の癒し”が世間で流行する原因の一つでもある。

この男女間のどうしようもなく埋められない溝を、まだ世間を知らない頃の幼い私に必死で解からせようと試みた最初の人間は、母親だった。
物心ついた時から、母はよく泣いていた。
理由は複雑すぎて、長くなるのでここではあえて話はしない。
だが、私が受けた不快な苦悩は18歳で実家を飛び出すまで、毎日の日課だった。
「お母さんはね、あんた達のために我慢して生きているんだから。
 あんた達がいなけりゃ、こんな家、とっくに出ていってるわよ」
じゃあ、出て行けば?
当時は何度口に出そうかと思い悩んだものである。
勿論、母親の幸せを願う気持ちからだったが、子供の自分が意見を言える立場ではないとあきらめてしまっていた。
しかし、現在も相変わらず同じことを愚痴っている母親に対して、今は躊躇なくすんなりと言える。
自分が大人になって、人間として対等に物事を見れるようになったからだ。
すると、母親は決まってこう答える。
「そんなこといわれても、今お母さんが出ていったら、お父さん、生きていけないもの。
そりゃ、もうあの人との間にはドラマのような恋愛はないけれど、だからといって、あんたが言うようにそんな簡単に別れられないもんよ。まったく、あんたは昔からクールというか、何を考えてるのかわからんというか、冷たい子だね~。本当に私の生んだ子かしら?」
それは、あなたがいつも自分の話に夢中で、私の話を聞かないからでしょうに。
ずいぶんな言い草である。とばっちりは決まって、最後に私に回ってくる。
いつものことなので、いい加減、ムダな反論は止めて無視をする。
そしたら、また始まる。
「お母さんはね・・・」
怒涛の愚痴大会エンドレス。そのエネルギー、他で使ったほうがいいよ、お母様。
あなたの人生、きっと変わってたわ。

なんていうかさ、(毎度のごとく、言い聞かせてるけど)
期待しすぎてるんじゃないの。
期待するってことはさ、相手を自分の理想の枠にはめるってことで、
枠にはめたらさ、そこから相手が逃げ出さないようにずっと見張ってなきゃなんないし、
そうなると、相手も身動きできなくて、結局、二人とも不自由になる。
人間はさ、どうしようもなく死ぬまで自由に生きようとする動物でしょ?
誰だって、その本能にあらがえないんだから。

それに実はもうずっと前から、母が欲しがっていた答えはちゃんと自分で出してしまってるじゃないの。
“父とは趣味も考え方も全然合わなくて、一緒にいてもつまらない。別れたいけど、心配で離れられない・・・”
あのさ、どう考えても、それって、愛じゃね?

生涯、片時も離れず、喜びと苦難を共に味わって、なんとか今日まで生きてきて。
つまるところ、運命の人って・・・
派手な出会い方をしようが、劇的で波乱万丈な一生を送ろうが、地味に平凡な結婚をしようが、死ぬときに初めて判るんじゃなくて?
そして、運命の相手とは、どんな状況下に置かれても、いつだって互いに変化していける関係を持てるということではないだろうか?
臨機応変な関係性。
一緒にいる時間の中で呼吸を合わせられるから、そばにいる。
その関係を長い間繰り返すうちに、気がつけば人生の大半、同じ景色を眺めていた。
それが運命の愛というものの正体の一面か?

しかし、ゲーテさん。運命とは風だなんて、やっぱり詩人はいうことが違うね。
幾世代に渡って、世界中の大勢の人間が共感したように、私もあなたの意見に賛同します。

運命が風なら、私達は風見鶏。
右を向けば追い風が、左を向けば向かい風に遭いながら。
突風が吹いた後に、やってくるのは優しいそよ風。
上手く風に乗ろうとして、手足をバタバタ四苦八苦。
苦しみはやがて喜びに変わるから、決してあきらめず、けなげに前を向いて。
今日も明日もあさっても。
運命という名の風を泳ぐ。

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コトダマピース 7詩*『愛する言葉』
2007-11-02 Fri 00:29
『愛する言葉』

愛をうまく告白しようとか、
自分の気持ちを言葉で訴えようなんて、
構える必要はない。
きみの体全体が愛の告白なのだ。

好きな女性が、
ほかの男と結婚しようが、
こちらがほかの女性を結婚しようが、
それはそれだ、
ほんとうの出会いは、約束事じゃない。
恋愛というものさえ超えたものなんだ。

人間というのは、
生まれつきのかたちで、
生きているのがいちばん美しいんだ

ぼくの場合、
愛はすべて闘いだった。

たとえ別れていても、
相手が死んでしまっても、
この人こそ自分の探し求めていた人だ、
と強く感じ取っている相手がいれば、
それが運命の出会いだ。


                              【 岡本 太郎 】

時々、ネットで自分の名前を検索することがある。
この広い世界で、自分と同姓同名の人物が果たしてどれくらい存在するのか、確かめてみたいという好奇心が湧いたからだ。
私という個人の本名は、世間では少しも有名どころではないが、ひょっとしたら、自分の認知していないところで、個人情報が乱用されている危険性だって無きにしもあらずで、そういう事もきちんと把握しておかなければいけないとも考える。
そうはいいつつ、私の苗字はかなり珍しい部類に入るもの。
これまでどこに行っても、自分と同じ苗字の人に出会ったことはないし、小説やドラマにおいても、まずめったにお目にかかれない。
そういうわけで、実際に同姓同名なんてヒットするわけがないだろうと、たかをくくっていたら、意外や意外、たった一人だけ見事に大当たりしてしまった。
もちろん、まったくのあかの他人である。

私と同じ名前を持つその人は比較言語学において、ちょっとした著名人らしかった。
その人には失礼だが、まるで未だ見たことのない自分の分身が勝手に動き回っている、ドッペルゲンガー現象のような感覚についつい襲われた。
更に面白いと思ったのは、私の名前を姓名判断で占うと、必ずといっていいほど、言語や外国にとても深い縁があると出る。事実、私とまったく同じ画数を持つその人も、海外に長く留学し、現在英語と日本語を比較研究している。私自身も大学で英語やドイツ語を専攻し、海外の友達も少なくはないという点で、ある意味、外国や言語という分野にまったく無縁だとは言い切れない。
この奇妙な共通点、ただの偶然か?
それとも、たかが名前、されど名前で、やはり長い歴史の中で膨大に蓄積された統計学に確かな傾向があるのだろうか?

そんな疑問はさておき、この際、調子に乗って、思いつく限り友人やら知り合いやらの名前も面白半分に検索エンジンにかけてみる。

しかし残念なことに、どれもこれも期待を裏切って、総スカンを食らってしまった。
けれど、私はそれをひどく羨ましく思う。
何故なら、出所のわからない情報網に汚染されていないから。
そして、ネットには上がらないだけでどこかに存在するかもしれないが、検索されない以上、自分の名前を唯一無二、しっかり独占できているという事実。
他にはない個性を満喫できているではないか。


そんな嫉妬心を覚えつつ、この際ついでに過去の恋愛で好きだった人やお付き合いをしていた方々の名前も試してみた。

うーん、こっちは嫌なことに、実際の本人に三人もヒットしてしまった・・・

一人は劇団の舞台役者で劇の宣伝と告知、もう一人は建築家で作品発表、そしてもう一人は・・・
若くして、3年前にWEB制作系の会社を立ち上げ、なんと代表取締役になっていた。

最後の一人、この人が一番衝撃的を受けた。
しばらく、開いた口がふさがらない。
「え?何で??」
多分、生涯で一番、私に計り知れない影響を与えまくった最大級の恋のお相手。
そして、決して実らなかった、行き場のない愛。
何故なんだろう。今でも夢に見るくらい、忘れられなかった人なのだ。

仮にKと呼ぶ。
この人は前述の2番目の建築家の幼馴染みで、当初付き合ってる頃に友達として紹介された。
そして、俗にいう、脳天に電撃が走るほどの一目惚れをした。
それだけではない。話せば音楽や映画や本の趣味において、実にマニアックな趣向を持つ私とまったく感性が同じで、初対面にして驚くほど、申し合わせたくらい話題が合った
その瞬間に、生まれて初めて一人勝手な運命を感じた。

そして、もともと浮気性な建築家を早々に捨てて、愛の告白をした。
結果は無残、こっぴどくフラれた。
理由は私が「好みのタイプじゃない」から。
とは言いつつ、そんな事では簡単に引き下がらなかった私にこうも言った。
「大体、お前は建築家と付き合ってたし、あいつはなんだかんだいって腐れ縁だけど、友達でいることには変わりない。もし、お前と付き合うなら、あいつを捨てる覚悟が必要だ。でも、今はそんなつもりはない。もしも、こういう形で出会ってなかったら、きっと付き合ってただろうな。それにまだ、お前という人間がわからない」
言ってくれるじゃないか。
好みのタイプではないといいつつ、蛇の生殺しのような、憎らしい隙を与えやがって。

フラれた後もしばらく交流は続いた。
まるでこっちの気を引くように、当時私が働いていたアルバイト先に直々遊びに来たり、突然電話をかけてきて、クラブのイベントに誘われたり。
恐らく、こっちの様子をうかがっていたのだろう。
そういう関係が何年か続いて、ある日、二人の間に一つの転機が訪れた。
私と別れた後、建築家が結婚することになって、二人が招待されたのである。
とあるレストランバーを貸し切って、パーティが行われた。
私は別の友達と二人で行って、パーティーの最後まで残っていた。
その時、いつもならたいてい用事が済めばさっさと帰るKも珍しく最後までいて、私にこう尋ねた。
「この後、どうするの?」
私は友達の事があったから、「うーん、わかんないけど、もう少しいるかも?」と答えたら、何故か寂しそうな顔をして、「そっか・・・」とつぶやき、じっと私を見つめる。そして急に優しく手をつないできて「もう帰ろうと思うんだけど」と、普段のKらしからぬ意味深な言動。
私は正直、すごく戸惑って、何も答えられかった。
私達はしばし、何も言わずに見つめ合うだけだった。
でも、そこに私は一つの答えを見た。
ひょっとして、私達、今日の結婚式でお互い妙なしがらみから解放されたんじゃないの?
変にこだわり過ぎてた建築家の呪縛から。
確かにそう感じたのに、どういうわけか私は次にこう発言してしまった。
「それじゃ、またね」
その瞬間、二人の間の空気が固まった。
でもまた動き出した時、Kは複雑な顔をして「うん。また」と握っていた私の手を離した。
それから、何度も私の方を振り返りながら、出口に向かった。
私は何故か追いかける気持ちになれなかった。
名残惜しむようにKが扉を開けて出て行った時、私は寂しさと同時に安堵にも似た感覚で思った。
ああ、今この瞬間二人のタイミングがずれた、と。

どうして彼の後についていかなかったのか?
彼が消えていった扉が閉じられた時、ちょっとした安堵を覚えたのか?

それは、あの瞬間に、人生の大きな選択を見たからだ。
Kが手招きしたあの扉の向こうに流れる運命を受け止める自信がなかった。
心の準備というか、待ち受ける希望と失望の両方に自然と腰が引けた臆病な自分がいることを、自らはっきり認めてしまった。
どんなに深い愛をもってしても、超えられない運河がある、と。

だが、そんな不安を少しでも感じてしまうなら、本物の運命ではない。
ただそこに一寸の幻想を抱いていたにすぎない。

甘い熱を通り過ぎて、とっさにそう判断した冷静な自分がいた。
最後の最後で、後先を顧みようとしない本能を押し殺す、いつもの悪い癖が出た。
自分を呪いたくなるくらい、客観視しようとする冷たい慧眼のなせる業。
悲しいほどの自己防衛。


それからも何度かKから連絡はあったが、なんとなく気持ちが乗らなくて、あいまいな返事を繰り返し、結局再び会う事もなく、その後すぐ東京に出てくると同時に私はKの携帯番号を消去した。
それ以来、Kは私の想い出の中だけで生きる人になった。

そして今、自らネットでKのその後の消息を知り、えらく動揺しつつも、これでよかったんだと心から思った。
もしも、あのパーティーで私がKを追いかけていたら、事態は180度激変していただろう。
私の生活も未来もまったく違うものになっていたはずだ。
でも今は私のそばには大切な人がいる。
その人のあどけない寝顔を見ていると、本当に幸せな気分になれる。
Kが会社を設立した時にも、今と変わらない笑顔をくれた人が。
この上もなく、私のわがままをいっぱい受け止めてくれた、愛すべきパートナー。
Kと私はもう互いに違う道を、戻れないくらいずいぶんと遠くまで歩いてきてしまった。
ほんのちょっとしたことで大きくすれ違った未来。
本当は今頃、Kの隣で笑っていたかもしれない、もう一人の私。
この命を捧げても何一つ惜しくはないと、本気で思った一途な想い。
あの時は死ぬほど叶えたかった、一生を共にすることを。

だけど。
なるべくして、道を分けた運命の向こう側。
私はなんの迷いも後悔もなく、満足して歩いているよ。
あなたと出逢えて、本当に良かった。
ありがとう、心から。
言葉で言い尽くせぬほど、素敵な夢を見た。
そして、あなたの幸せを誰よりも願っています。
決別の日の穏やかな朝焼けに誓った祈りと共に。


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コトダマピース 6詩*『あなたは弱くない』
2007-10-29 Mon 23:36
『あなたは弱くない』

生きていれば、悩み落ち込む時は必ず訪れます。
だけどそれはあなたが弱いからではありません。
問題に対処するノウハウを知らない、
ただ世間知らずなだけ。
人生経験が乏しくて、比べるものを何も持っていないから悩むのです。
地球上のさまざまな知識を得る努力をすること。
360度の中の1度の幅の中で考えても
答えなんて出ないのですから。

やりたい仕事につけたから、あとは平和で幸せな日々が続くなんて大間違い。
それはどんな仕事でも一緒です。
何かを一つ得て喜んだら、それに匹敵する苦しみや悲しみがあります。
そこから逃げ出したらどうなるか。
ずっと横ばいで成長しない人間になってしまいます。
人間の足は、カニの足とは違います。
横ばいではなく、前に進むためにあるのです。

                     【 美輪明宏~愛の話 幸福の話~ 】


 今更この方については、なんの説明もいらないだろう。なんといっても、美輪さんである。
この度、初めて今なお生存する方を選ばせていただいた。
しかし、美輪さん自身は輪廻転生を繰り返し、この世に2000年も生きていると豪語している限り、もはや並の人間ではない。
もし本当ならば、キリストやブッダと匹敵するほどの歴史を背負っている、と判断してもおかしくないくらいだ。

正直なところ、美輪氏に関しては、以前はさほど興味はなかった。
だが、そんな私に美輪氏を薦めてくれたのは、ある人物のおかげである。

私はその恩人を「キザ男」と呼んでいた。厳密に言えば、私ではなくて「私達」なのだが。
今は懐かしき学生時代、誰が呼び始めたか、出会った頃にはもうすでにこのニックネームがついていた。
理由は、頭が良くて男前で結構モテる方なのに、いつも小難しい本を読んでいて、理論武装上等の、ムカつくくらいひねくれた皮肉屋だったからだ。私達がワイワイ騒いでいる傍らで、その様子を微笑みながら、静かにドイツ語の教科書を開いているその様は、まるで昭和か大正時代の文学青年風だった。実際、古臭い純文学にかぶれたインテリで、事あるごとに「君達は本当に馬鹿だね」と口癖のように吐くくせに、何故かいつもグループの中にいて行動を共にしていた。本当はただの寂しがり屋なんじゃねーか、と知りつつ、そんなキザ男が可愛かった。
その上、普段はクールな理性の下に隠してあえて見せないようにしているが、実際はすごく仲間想いで、熱いハートの持ち主だったことも憎めない原因の一つでもある。
おまけに、恋愛も人妻だったり、ストーカー女だったり、毎度毎度ややこしい状態に陥っていて、(それでも彼はいつも理屈をこねて飄々としているのだけれど)それがまた日々の面白いネタの餌食になるのである。
そんな彼と、ある日二人で学食を食べていた時だったと思う。いつも皆で集合する場所にはまだ誰も来てなくて、待つ間、色んな話をした。私達は普段からお互い対極の位置にいるね、と認め合っていた。
つまり、キザ男は「まず全てが理性ありきで、感情をも理性でコントロールできる人間」であり、私はというと「放っておくと感情をコントロールできないため、それを抑えるために、理性で防波堤を作っている人間」なのである。
本来、キザ男は理性型、私は感情型というわけだ。言い当てて妙、という感じだと二人して笑った。
そして、その時、私の恋愛話になって、いつものようにキザ男は親身になって聞いてくれていた。ああだこうだと貴重なアドバイスをくれる。だが、助言は少し空振りしている感があって、最後には二人でう~んとうなってしまった。それでも、私はただ聞いてくれているだけで満足していたのだけれど、キザ男はなにやら思うところがあったらしい。
次の日、私に本を貸してくれた。しかも、ここの部分を読めとばかりに、相当するページにはご丁寧にフセンを貼ってくれてある。
キザ男に代わって、愛の助言をバトンタッチしたのは美輪氏だった。
私は思わず笑ってしまった。キザなキザ男でも美輪さんの本を読むんだな~と。
ずいぶんとロマンチックなところがあるじゃないか。

しかし、試しに読んでみると、さすがに薦められただけのことはあった。
なんだかすごく表現しがたい深みがある。
男性でも女性でもない人間の、極めてボーダレスな含蓄ある言葉。
観音様には「性」がないというけれど、まさにそういう視点からこの世を見つめていらっしゃるのか?


あれから何年も立って、書店で美輪氏の著書を見るたび、キザ男を思い出す。
今は学校の教師になって、ついこの間結婚した。しかも相手はPTAがらみの元人妻・・・
相変わらず、全然シャレになっていない。


ここに紹介した言葉は、以前キザ男に借りた本ではないが、この本の中でもう一つ興味深い教えを目にした。

それは及川光博との対談の中にあった。
役者としてどう自分を表現していけばいいのかと、ミッチーが美輪氏に尋ねたところ、
「あなたには両親がいるでしょう?両親それぞれにも両親がいる。これで、あなたの先祖は6人ね。そうやって3代、4代とずっと先祖をさかのぼって書き出してごらんなさい。画用紙の上に、何百、何千ってびっくりするくらいの人間が現れるのよ。及川光博という一人の人間の体には、これらの人たちから受け継いだ素質や才能や想いがぎっしり詰まっているの。さまざまな種類の人間の可能性をひとりで持っているってことなの。
だから、役者という仕事なら、何千兆の細胞の中から、あなたが演じたい人物を構成するために、ほんの何人かをチョイスすればいいの。
ありもしない人物を演じるんじゃなくて、みんな自分の中にいるのよ。その中の何人か分を呼び出すだけ。
つまり、自分を否定してしまいそうな時、好きになれない時、体内にはほかにもっと素敵な人間がいるって考えればいいの。そして、その可能性を引き出すのよ。」

なんというスケールのでかい話だ。
ミッチーもびっくりしていたが、私も驚いた。

これって、なんだか前回の靖国神社の話につながってないか?
親を想うことで、先祖につながっていく。そして、私の生命は子孫へと受け継がれていき・・・
役者というジャンルに限らず、美輪氏が唱えるこの構造はきっと私達にも当てはまるはずだ。
私達の中にも沢山の人物や想いがつまっていて、四次元ポケットのように望めばいつでも出し入れできる。
しかし、ただ闇雲に取り出そうとするだけではダメなんだと思う。
大切なのは、自分の中にいる複数の想いと心や魂を通じ合わせなければならないということ。
本気で必要としているのかどうか、変わろうとする強い意志があるのかどうか。
自分に少しでも嘘をついていたら、ただちに消えてしまう。
それほど繊細で、純粋な正直さを求められる代物。
TVのチャンネルを合わすように、簡単に見たい画面は出てこない。
なまじっか会いたいと願っても、自分の中にいる人が答えようとしない限り、会いにきてくれない場合だってある。
それは靖国神社で知った。
いや、もっと色んな場面においても、日々学ばされることが多い。
そう謙虚に思えるようになったから、見え始めたんだろうか?
目でとらえるだけがこの世界の常識ではない、肌で感じる絆というものを。


「だから、あなたはそこに呼ばれたんです。」

まるで、勝ち誇ったかのように美輪さんの声が頭の中で響いてくる。
生き仏ですか、あなたは。


自分の中で何気なくつかんだものも、実はどこかの入り口や出口につながっていて、私達はその間を知らず知らずループしている。
広すぎて眩暈がするほど、測りしれないこの宇宙の中を。

私やあなたの想いもきっと、銀河のどこかで出逢い別れて、またばったり出くわして。
そうして共に旅を続けるのでしょう。
1万光年の夢を無限のポケットに敷きつめて。







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